BOUNDARY:SEVEN ARTISTS IN YOKOHAMA |
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■2006年11月25日(土)-12月10日(日) 平日11:00-18:00、土日11:00−19:00 | ||||||||||||||||
■ZAIM(別館) 3F | ||||||||||||||||
■主催:ZAIM(財団法人横浜市芸術文化振興財財団) |
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-主催者より- 現代の資本主義は新たな思想・哲学やイデオロギーを生み出し、社会の中に内的に存在する"BOUNDARY(境界)"という定義をより明確に区分してきた。それは、国家間における政治体制、民族間における宗教、持てる国と持たざる国、有産階級と無産階級、白人と有色人種、男女の性差、などの相違を浮き彫りにし、あるときは両者を共存させ、またあるときは対立させ競争させている。そのラインはますます狭められていく傾向がある。 一方、横浜は周知のとおり近代日本の歴史の中で、その初期の段階でボーダーを取り去った港湾都市であり、どのような文化や国籍の違いも巧みに受け入れ、それらを新しく自らの風土とするような強烈な魅力のある街である。その横浜の中心部に位置するZAIM(ザイム=旧関東財務局」及び旧労働基準局)は、このエリアに点在する歴史的建造物のひとつで、現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ2005」の開催に当たって、市民サポーターやアーティストの活動と交流の場として活用された。そして現在は若いアーティストやクリエーターが集う、新たなクリエーションとプレゼンテーションのスペースとして、様々なプロジェクトやプログラムを展開している。 今回、本展で発表する7人のアーティストたちは、それぞれ国境、国籍、表現方法や形態といった"境界"から常に自由に活動しており、自らの表現を求めつつ発表の時を待ちかねていた。インスタレーション、ペインテイング、 写真、映像、サウンド、そしてパフォーマンスまで、それぞれのユニークでウイットに富んだ作品を展示していく。国内でも有数のこのマルチカルチャーな横浜の地で、そしてZAIMというそのテーマと目的に見事にかなうスペースで、彼ら7人のアーティストは内在する境界をどのように表現するのだろうか、という問いかけから始まった本展のプロジェクトは、まさに時宜にかなう展覧会となっている。ZAIM(財団法人横浜市芸術文化振興財団)が主催し、Hatch Artの企画による本展覧会は、彼らの個性あふれた作品を紹介し、それら作品の中にこめられた彼ら自身の"BOUNDARY"に対する認識を通して、私たちが現代社会で直面する様々な"境界"の功罪を再確認することに狙いがある。 |
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-about BOUNDARY- 「BOUNDARY」の展覧会趣旨が難解な言葉に彩られていても、心配することはありません。現代美術は一方で説明がなければ成り立たない難解な部分がありますが、他方で言語を超えて「見る」ことによって理解できる明瞭な部分もあります。ですから「BOUNDARY」において肝心なことは、《境界線》を意識し、作品を見ることによって感じることだけです。先ず、展示された作品群を一つ一つ追ってみましょう。 ジャック・マクリーンの〈Untitled〉は、部屋一杯に広がるインスタレーション(絵画や立体というジャンルにこだわらない空間展示)です。壁に絵が展示してあるのですが、床に有刺鉄線が張り巡らされ、危険な作品という雰囲気があります。それでも有刺鉄線が「危険」を表すサインであることを自己の中で打ち消す、即ち《境界線》を取り払うと有刺鉄線が怖いものに見えなくなり、容易に近づくことができます。すると有刺鉄線と壁に隙間があり、そこに入れる事に気が付きます。壁の絵を近くで見ると、様々な姿格好をした人物や動物が描かれていることが分かります。でも、これらの生命体の前には有刺鉄線が描かれているのです。実際の《境界線》を乗り越えても、絵画の中にも《境界線》は発生しているという、皮肉な作品です。しかし、生命体たちは生き生きと描かれています。《境界線》は、決して「悪しきもの」ではないことがみることによって理解することができるのです。 マーティンは三つのスクリーンとプロジェクターを駆使して、それぞれが4分以内のビデオ作品の上映をしました。〈It's not done to say oh yes!〉(3分50秒/カラー)は、過激派を装う一人の男が昼の露店を徘徊するものです。その挙動不審な動きを相手にする通行人はいません。〈AZZKOLARI〉(1分50秒/カラー)は、廃墟の中を一人の男が斧を携えてうろつきます。男は斧を振り下げることなく、映像は終わってしまいます。〈Specters of Resistance〉(2分20秒/モノクロ)は、建設途中か撤去しているのか良く分からない建築物を下から上へ見上げるアングルであったり、細部を執拗に撮り続けたりする映像です。この展示の特徴は、同時に3つのスクリーンを見られないにも関わらず、音や光によってその気配が感じられ、更に時間がばらばらですので輪唱のようにならずに常に異なる空間が部屋を支配すところです。この展示方法こそ、世界中の出来事を検索できるインターネットの時代でも解体しえない人間が抱える《境界線》を指し示しているのです。 新良太の〈鏡の間で〉は、この部屋から見える表の風景を撮影し、反転して実物のサイズにプリントアウトした作品です。つまり、窓が鏡合わせになっている状態の空間を、隙間として訪れた人は歩くことになります。この部屋は渡り廊下のようについつい通りすごしてしまうような目立たない部屋です。「反転」とは、一方で逆の世界―善と悪、光と影、水と油など―を表すことになります。他方で、別の世界―現実と虚無、会話と文章、想像と象徴―を指し示す場合があります。新の場合は後者で、〈鏡の間で〉という作品があるこの部屋に足を止めて身をおくと、そこはどこでもない、《境界線》さえも存在しない空間を体験することができます。それは《境界線》とは何か、という新たな問題意識を見るものは自己に問うことにもなっています。そして《境界線》とは実は、自らが作り出していることに気が付くのです。このように作品を通じて、概念を理解できる展示となっていました。 Eiji Suzukiは、〈祈りの壁〉と〈No title〉、〈No title 2〉という3つの木炭による作品を展示しました。〈祈りの壁〉は6×3mの巨大な作品で、11月25日、12月2日、9日にライブペインティングを行いました。作品の解説には以下のように記されています。「人々の日常における内なる心の祈りを即興の具象ペインテイングで壁を一面に表現する。本展覧会で訪れる人々との対話を通して内なる祈りを捉え制作への原動力とする。会期中の3日間かけて人々の様々な肖像を描き続け、 最後には統一された大きな祈りのメッセージとなって完成される」。完成した作品には計36人の人々が描きこまれました。このようにEijiが「描きこむ」作業そのものに、その作品の意図がこめられています。ですからイギリスの田舎風景を描いた〈No title〉、その地平線上に太陽が垣間見られる〈No title 2〉も同様でしょう。このような方法論を持つEijiの作品は精神的要素が多く含まれます。表情ではなく精神を描ききろうとする作品を長く見つめることによって、見る者は人と人との間に存在する《境界線》を意識することができるのです。 杉山啓子の〈Red dress〉は、ZAIMの最も狭い部屋に仮縫い用トルソを置き、トルソと床に和紙による直径50cmほどの赤い花びらのようなレリーフを散りばめた作品です。杉山氏は作品解説の中で、以下のように述べています。「床にひろげるドレスのすそが人と物の境界線(ある種の「結界」のようなもの)にもなるであろうし、散らばり、はい上り、まといつくと空虚な人型に沿ってドレスに見える物が、展示場所の小さな部屋の四方の壁に囲まれてとらわれているような…、そこで誰かを待っていたような…、人のカタチをしたドレスの先にBoundaryを超えた「何か」が少しでも伝わるよう願っている」。この意図は、かなりの確立で見るものに伝わったのではないかと思います。トレスが人体にも見えてきますし、花びらのようなものは何か他の物体かもしれません。そして何よりも重要なことは、この部屋に土足で入り込む人がいなかったことです。部屋そのものと外部の空間に《境界線》が産まれてしまったのです。 「BOUNDARY」期間中には、様々なイべントが行われました。 更にその後、出展作家マーティンによるライブパフォーマンスが行われました。マーティンは元々ソロでのパフォーマンスや他のアーティスト達とのコラボレーションを得意とし、インプロヴィゼーション(即興)・パフォーマンスという、段取りがありながらも即興性を持つ特徴を強調するため、コンピュータ・フィードバックを用いているそうです。即興とは大抵、全てが偶然の産物と解釈されていますが、実際には機材の選択、想像力の限界などの理由により、段取りは存在します。これはそのソロライブです。会場は照明が落とされ、暗闇の中でライブは行われます。マーティンはノートパソコンを振り回し、設置された2台のギターアンプに近づけてフィードバックを発生させます。巨大な音を通り越した爆音、コンピュータによる破壊的な持続音が鳴り響きますが、人間とは不可思議なことに、悲痛な環境にもすぐ対応してしまう場合があります。そのように耳が慣れてきたところに、マーティンは叫び声を入れます。ここでまた聴く者の心が折れます。極限状態を押し付けられると何が真実であり何が虚構であるのか、即ち《境界線》が透けてみえてくるのです。 12月2日には、マーティン/ 宇波拓による〈死霊のコンピュータ〉が行われました。マーティンはソロではなく、パートナーを連れてきました。12月3日には、Junko
とデュオを行いました。このように自己を増殖させるように感じさせながらも、他者と自己の芸術をぶつけることも、一つの《境界線》の確認ということができるのではないでしょうか。(宮田徹也) |
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アーティスト紹介 | ||||||||||||||||
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