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この展示では「狂気」の要素を一望できる風景を展開しました。 それぞれの作品は、蓄積された受動的なうっ屈による自己倒壊に近い状況において、自己を保持し続ける感覚や、緊迫感の持続による爆発的なエネルギー、置き換えるなら「怒り、ゆがみ、閉塞感、牢獄、狂気、ヒステリ−」といったものの断片を示しています。 絵の中で起こる事柄はショッキングであるほど見る者への防衛機能を促し「頭の上から足の先までの身体だけが私である」というような自己確認を引き起こす効果を意志的に組み込みました。(松井 冬子)
図版
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とにかく大きくて果てのない絵を描きたい。毎日マンガばっかり描いてるとそう思うようになる。マンガは始まりがあれば、終わりもある。毎回毎回きっちりコマの中に絵を収め、コマもページもそして締め切りもみんな決められたワクの中にしっかり収めなければならない。こんなズボラな自分がよく漫画家をやってるもんだと思う。いつかそこから解き放たれたい。今回そんな夢が実現しそうだ。始まりや終わりに縛られず、自分の描くビジョンや下書きにも縛られず、締め切りにはちょっとだけ縛られて、思いっきり「絵」を描いてみたい。頭のままにでもなく心のままにでもなく、手のまま。手に目と心と頭を移して描いてみたいと思う。(しりあがり寿)
図版
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展覧会のカタログに、「作家のことば」なるものが載っていることがある。しかし、そういうものを読んで、おもしろいと思ったことがほとんどない。何が言いたいのかよくわからない独り言のようなものが多いからだ。 だから、そのことばが作品鑑賞の手助けになることも少ない。その作家の「ノリ」のようなものがわかるだけだ。しかし、そういう作家の「ノリ」と、つくられた作品の間には、あまり関係がないと考えるほうが健全だと思う。僕のことはまあいいから、作品を見てください、ということだ。 ヒネたことを書いていると自分でも思うが、そういう「ノリ」の作家だということはわかったいただけたかと思う(笑)。作品のほうは、すごく素直だと思っているので、そちらの方をどうぞよろしくお願いいたします。(中村ケンゴ)
図版
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作品《四季草花図》の基となったびょう風絵や障壁画について、私が最も興味深く思ったのは、実物を見て描く事と、描かれたものを模写する事の間に境界がない事である。それらはどちらも〈写生〉という日常を洞察する行為の一環として行なわれる。一輪の花は、軽やかに絵から絵へと渡り歩くうちに少しづつ変形され、整形されていく。 作品を編集する際に感じる緩やかな視覚の変化は、これによく似た感覚を覚える。変形に変形を重ねられた花は、いつまで本物というべきか。いつから作り物というべきか。 緩やかな編集を経て、花は日常の状態からはかけ離れた奇異な姿をさらしていたとしても、目の前で動き始めたとたん、私たちの意識は急に日常に引き戻される。 (小瀬村 真美)
図版
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私は視覚を信用している。それは間違いを犯さないという意味に於いてではなく、謂わば全く別のものを見出す能力においてである。従って正しく言えば誤解する能力においてである。絵の具がカンバスの上で生み出していく形に導かれながら、そこに空間を見出す事が出来る能力においてである。平で奥行きのない単なる平面の上に無限の空間や光や遥かな時間まで思い起させる事が出来る能力を信用している。そしてその表象は決して個人のものにとどまらない、普遍性を持つ事に対しても深い信用を置いている。 (中村 清)
図版
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