(木村絵理子)
]]> 今回の探検隊は鎌倉を訪れました。
イサム・ノグチが山口淑子と結婚し、新居を構えたと言われている地へ向かいました。当時交友のあった北大路魯山人の勧めで、魯山人の住居の近所に居を構えたと言われています。現在はその地は小学校となっています。ちょうど校庭にある時計付近がノグチの住居があった場所のようです。今でも緑の多い地ですが、当時は今より山が迫っており、ノグチのアトリエは山に沿ってできていたことから内壁が山の岩肌だったそうです。北大路魯山人が住んでいたといわれる場所に、当時の門が残っていました。藁葺きでできた風情のある構えでした。時折鶯の鳴き声が響き、人里離れた山間の町といった趣がありました。ノグチはそれまでも陶芸作品を残していましたが、この地で日本の陶芸について魯山人から学んだようです。今までの陶芸は実用品としての作品が多かったようですが、ノグチはオブジェとしての陶芸作品を作り、日本の陶芸界に大きな影響を与えたと言われています。
その後北鎌倉へ移動し、円覚寺を訪れました。円覚寺の蔵六庵はノグチの父親であるヨネ・ノグチ(野口米次郎)にゆかりの場所です。ヨネは、文筆活動のためにこの場所に滞在していました。イサムの母レオニーはヨネの英詩の手伝いをしていたので、何度かここへ訪れたかもしれません。ヨネはどのような気持ちでこの門をくぐっていたのかと思いをはせました。
最後にノグチが開館後間もない頃に展覧会を開いた鎌倉の神奈川県立近代美術館へ行きました。ノグチの作品が一点展示されていました。「こけし」です。思わず微笑んでしまうくらい愛らしい表情をした作品でした。数週間探検を重ねた最後にこのかわいらしい「こけし」の表情を見て、ノグチの優しい心に触れたような気がしました。
(横浜美術館市民ボランティア 宮川朋子)
『二つの自然』
最終回は、イサム・ノグチが間借りしていた北鎌倉の魯山人邸跡、父・米二郎が執筆のために度々滞在していた円覚寺、ノグチの個展が開催された神奈川県立近代美術館を訪問しました。
特に印象が強かった魯山人邸跡は、大船駅からバスに乗り、バス停からも15分ほど歩いた山間にありました。かつて広大な土地を擁した魯山人邸跡は、今は一部を残すだけで、小学校、マンション、住宅が立ち並ぶ場所となっていました。ノグチ(と当時妻であった山口淑子)が借りていた家は残っていませんでしたが、魯山人邸の萱葺きの門がしっとりと苔で覆われ、かつて自然を愛でつつ制作に打ち込んだ時間が肌を通して伝わってきました。
当時、この山間の入口には切通しがあり、通り抜けた先に田んぼと緑が広がる、まるで桃源郷の様な土地だったそうです。街まで容易には出掛けることの出来ないこの桃源郷で、自分のアイデンティティーについて外野から突かれず、父の様に慕った魯山人と共に制作に打ち込む時間は彼の後半生に大きな影響を与えたことでしょう。
少年期の茅ヶ崎で感じた大らかな自然と、鎌倉の奥地で田舎風情ながらも洗練された自然。彼の作品が自然でありながら洗練さを感じるのは、これらの土地から得た記憶が紡ぎだしているのだと思いました。響き渡る鳥たちの声と雨にぬれた草木が放つ青い香りを吸い込みながら。
(横浜美術館市民ボランティア 上野志乃)
1950年代初頭、イサム・ノグチが魯山人に招かれて鎌倉の地に住んでいた頃は、彼の人生の中でも創作活動が最も盛んな時期であったという。当時の妻山口淑子との華やかな私生活もさることながら、鎌倉の地がもつ豊かな文化の香りもその背景にはあったのだろう。決して交通の便がよいとはいえない緑深い山奥には、静かな時間が流れている。人里を離れて、切り通しで隔てられた地は、落ち着いて制作に取り組むのには最適だったのかもしれない。雨がしとしとと降る北鎌倉の山崎の地に立っていると、魯山人がイサム夫妻を食事に招待するときに鳴らしたという鐘の音が、遠くから本当に聞こえてきそうな錯覚すら覚えた。
鎌倉の古都としての魅力は、自然と私たちに日本人であることを意識させる。イサムが小さい頃、父が円覚寺に住んでいたときに訪れたのかもしれない。だとすれば、一度は離れた地、鎌倉。アメリカ生活を経験した後、再び日本に戻ってきたとき、イサム・ノグチの目に、鎌倉の町はどのように映ったであろうか。きっと長い異国の地での生活により培われた「外」からの視点を持った時、日本の古都独自の魅力はことさら新鮮に映ったのではないかと思う。神奈川県立近代美術館にある「こけし」に、そんな日本人の遺伝子を受け継いだ芸術家としての自覚を感じずにはいられなかった。
今回で、全三回のイサム・ノグチ探検隊!の活動が全て終了したことになる。こどもの国、藤沢、茅ヶ崎、そして鎌倉。彼のゆかりの地を訪れ、人生の足取りを少しではあるが辿ってみることで、今まで以上にイサム・ノグチの作品が身近に感じられるようになったことは言うまでもない。
(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)
今回は雨の鎌倉を歩きました。
1950年代に、イサム・ノグチが山口淑子と暮らした北大路魯山人邸のはなれは、今は魯山人邸共々残っていませんが、写真で見ると谷合の土地に山を背にした屋敷とその前に広がる田んぼといったこのあたりに典型的な農家の配置です。敷地内に移築した農家に住んだそうですから、落ち着いた田園生活が満喫できたことでしょう。
途中の道端に、あたりの住宅にはそぐわない庚申塔があったことからも、高度成長期以前は中世からの静かな田舎と呼ばれるような土地柄だったと思われます。そんな土地で土を捏ねて暮らす。おまけに新婚さんですから、絵に描いたような幸せな穏やかな日々を過ごしていたことが想像されます。もちろん、作品に対する芸術的な悩みはあったかもしれませんが、現地に立って思ったのは、写真に残るアトリエのことです。背後の山の崖の法面をそのまま壁にしたアトリエがとても印象に残りました。写真で見ただけですが、崖の地層がそのまま壁や台に見えるので、本当に崖の法面そのままのようです。切通しだった道を歩いた限りでは、現地の土はそんなに明るい色ではなかったので、採光が悪いと暗い雰囲気のアトリエになったのではないでしょうか。アトリエの反対側は、対照的に明るく開放された縁台のようですから、雨降りのせいで暗い土に見えたのかもしれませんが、崖が剥出しで地層も見える暗い壁は気持ちを引きしめる効果があったのかもしれません。
イサム・ノグチにとって最も幸せだったと思われる時期を過ごした場所は、穏やかな土地柄が偲ばれ、ゆかりの地を歩くこちらにも、その幸せが想像され、ほんわかと暖かい気持ちになれました。
また、最後に見た神奈川県立近代美術館にあるその時期の作品も、その幸せさを思わせる柔らかな色のみかげ石製の男の子と女の子のペアでした。
(横浜美術館市民ボランティア 片平明子)
バスにゆられて10分ぐらいの「山崎」で下車。
ここから徒歩10分程のところに、イサム・ノグチとその妻山口淑子が魯山人邸の一部で新婚生活を送った地があるという。残念ながらイサム・ノグチ達が住んでいた所は現在、小学校となっており、裏山にはマンションが建っていた。だが、魯山人邸の門は残っていた。心なしか堂々としているように思えた。「イサム・ノグチは魯山人の下で陶芸を学び陶芸界に大きな影響(オブジェとしての陶芸:オブジェ焼き)を与えたんです」と学芸員の方。なるほど確かに、今でも木々がたくさんあり、まるで「となりのトトロ」に出てきそうな雰囲気で、空気はキレイだし、天才のもとで天才が学べばそれはいい作品が生まれるよなぁと一人勝手に納得してしまった。
その後、バスで北鎌倉に移動。昼食を取った後、北鎌倉の円覚寺境内にある蔵六庵を見学。ここは夏目漱石も執筆の為、滞在した事があるという(現在はお寺の方が住んでいるため、こちらも門の外から見学)。この場所にイサムノグチの父野口米次郎がやはり執筆のために滞在したとのこと。母レオニーとイサムは米次郎とは別の場所に住んでいたから、ふたりは通っていたのだろうか。だが父は子供をもうけた別の女性と結婚してしまう。やはり女性としては、レオニーに同情してしまう。イサムノグチにも…。心なしか、寺の奥で木がうっそうとした中に家があったし、雨も降っており、少し感傷的になってしまった。ただ、「母レオニーが英語教師として生計を立てていたので、暮らしはそんなに貧しくはなかったと思います」との学芸員の方の説明に少し救われた気持ちになるが、やはり、イサム・ノグチの気持ちを考えると複雑になった。
最後に、鎌倉の神奈川県立近代美術館にある中庭のイサム・ノグチのオブジェを見学して終わった。色々一日見てまわり、イサム・ノグチは、とても孤独だったのではないかと感じた。日本人の父と外国人の母との関係、自身も結婚後、約5年で離婚。個人的に、どことなくほんわかした感じがする作品が多い気がするのは、そういう温かい気持ちや雰囲気に憧れていたのではないか?孤独ゆえに芸術に情熱を傾けたのではないかと思った。
イサム・ノグチの残してくれた様々な作品がずっと残るといいなと思った一日だった。
(横浜美術館市民ボランティア 小林純子)
梅雨を思わせるような天気の中鎌倉にイサム・ノグチの足跡を訪ねた。1951年から52年にかけてのノグチの北鎌倉、鎌倉での生活の跡を訪ねた。魯山人と知り合ったノグチはその縁で北鎌倉に居を構えていた魯山人のもとで、その登り窯を使って作品を制作した。鎌倉特有の切通しの近く、後ろに里山が迫った場所に魯山人邸、慶雲閣他の跡地があった。現在は入り口の茅葺の風情ある門だけが残っていた。80年ほど経っているので登り窯は現存しないが広い敷地跡にその窯があったと思うと魯山人もノグチもより身近に感じられた。イサム・ノグチはこの魯山人邸敷地内の離れに居を構え作陶した。また女優の山口淑子と結婚し充実した生活のなかで作品を制作したと思われる。この時に作られたであろう「こけし」という作品が神奈川県立近代美術館に設置されている。石で出来た彫刻作品で穏やかに微笑したような男女のコケシで新婚の幸せなカップルであったであろうノグチと山口淑子を思わせるものであった。日本初の公立近代美術館として 1951年に開館した神奈川県立近代美術館では、1952年に「イサム・ノグチ展」が開催され、今横浜美術館の「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」に展示されている陶製の「かぶと」が出品された。この作品は魯山人の登り窯で作られたものであろう。当時、陶芸は器などが主で、彫刻としての陶芸作品を作ったのはノグチが初めてだということを知った。イサム・ノグチの個展が日本初の公立近代美術館である神奈川県立近代美術館で開館2年めに開かれて、ノグチと神奈川のつながりを知った楽しい探険デーであった。
(横浜美術館市民ボランティア 原口加寿子)
JR大船駅よりバスで10分足らず、更に徒歩で10分程の処にノグチが陶芸家の魯山人の勧めで居を構えた跡地を訪ねました。
昭和26年(1951年)、ノグチは、その頃の日本人で、知らない人はいないと云うほどの超有名女優、山口淑子と結婚して大きな話題を提供し、一躍、彼の名前も一般の人々にも知られる存在になりました。その彼が魯山人の知遇を得て、魯山人邸敷地内の工房で作陶生活が送れたことは、わずか一年余りのことではありましたが、その後の彼の作家活動に大きな影響を与えただろうと思いました。残念ながら、跡地は山崎小学校のグラウンドになっていましたが、道路を挟んだ向かい側には、立派な門構えを持つ魯山人邸と広大な敷地が残っておりました。当時は登り窯で焼いていたそうですが、今は個人の所有地ということで、邸内も窯跡も見ることは叶いませんでしたが、当時の名残はかなりうかがう事が出来ました。彫刻家ノグチが、陶芸と云う未知の世界を知ることが出来た貴重な1年間であり、充実した生活が送れた幸せな一時だったのではないか、と想像した次第です。この後、鎌倉の近代美術館を訪ね、コケシと題された彼の作品を観ました。館内の屋根のない中庭に置かれた作品は、わずか1点ではありましたが、不思議な存在感を放っておりました。
(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)
大船駅からバスで山崎小学校へ。バス停より、狭い道を15分程歩いたか?
山がせまって来た頃、校庭の所に出た。
イサム・ノグチが新婚時代を過した魯山人邸跡で、別棟に住み、生活したと聞いた。
今は古い竹垣が道沿いに続き、苔むした風流な茅葺き屋根の門がまえで「○○庵」と出ているが、読みとる事が出来ない。魯山人が戸を開けて出て来そうな庵。イサム氏もここを出入りしたのだろうかと思った。
今の小学校の時計のあたりが新居(2人の)で魯山人が食事を一緒にする時、鐘を鳴らして合図していた距離に住んでいたというが、今は激変しすぎて、ここでも年月を感じた。陶芸を初歩から伝授されたとの事。深い山々に囲まれた静かな場所は、新婚の幸せと、陶芸に対する新鮮な思いと発見、制作も、精神的にも意欲が湧いていたのではないかと思った。竹垣づたいに、ずっと奥へ入ってみたが、庭の手入れは行き届いていて、古い瓦屋根だけ見え、魯山人が使用した一棟に思われる感じだった。
円覚寺へ移動。イサム氏の父上が執筆にこもった蔵六庵があるとの事で、今は住職の住いになっているようで、門に竹が渡されて、入る事は出来ず、古そうな変形してしまった石段が、うっそうとした昼でも暗い中に見え、執筆には良さそうに思えた。イサム氏の来日2ヶ月後という事は、母レオニーと訪ねたのだろうか。訪ねた事があったとしたら宗教的な何かも子供心に感じ取り、静寂さ荘厳さをも作品に影響されているのかなと感じ、改めて作品を見ようと思った。近代美術館の「こけし」は、イサム氏と山口淑子の一番幸せな頃の作品なのかも知れないなと感じた。
(横浜美術館市民ボランティア 成田 幸)
今回の探険は鎌倉です。
ノグチが妻山口淑子との新婚生活を送った地。北大路魯山人邸の離れに住み、制作を行ったという。
バスを降りてから歩いて行くと、現在も当時のまま門が残っている。それだけしかないのだが、それを手がかりに美術館からいただいた資料の中の魯山人邸の写真とを照らし合わせ、当時の姿を想像する。
裏には山が、手前には田んぼが広がるのどかな景色。そのとても日本的な風景は、ノグチにどのようなインスピレーションをもたらしたのだろうか。魯山人邸から食事の合図があると、田んぼのあぜ道を二人は歩いて行ったようだ。
四季折々の田園の風景。青々とした夏、実りの秋の黄金色、冬の何もない田んぼ。それらをノグチは見たはずだ。子供時代を過した茅ケ崎とはまたちがう景色だったかもしれない。そして愛する人がそばにいる。のどかな日本の田舎で過せた幸福な時代だったと思う。
次は円覚寺へ。この中の蔵六庵は、ノグチの父米次郎が執筆のため滞在した。
ノグチが2才の頃、イサム母子が来日してわずか2ヶ月後。
ノグチはわれわれと同じように山門を抜け、歩いて父の所へ来たことがあったのか。それは父が遠い存在であるということの証明でもある。米次郎が静かなここでの環境を好んだとしたら、イサム母子は彼にとって何だったのだろうか。この3人の関係はあまりに複雑な気がする。
最後に神奈川県立近代美術館へ。1952年に「イサム・ノグチ展」が開催されたところ。今は中庭にノグチの作品「コケシ」がある。石のかわいらしい感じのする男女一対の「コケシ」。丸みを帯びた形はあたたかさを感じる。
当時作品を見た人々の反応はどうだったのだろう。この時の作品のいくつかは、今横浜美術館で展示されているのでは?もう一度展示を見たいと思った。
(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)
イサム・ノグチ探険も最終日。
この日も雨。イサムが山口淑子と結婚し、北大路魯山人の自宅敷地内の離れを借りて住んだ所へ。
大船駅からバスで山崎迄。魯山人の邸宅は、今小学校になっており当時の写真から想像するしかない。
1952年頃は、小袋谷から切り通しを通って臥龍峡へ入ったそうだ。小学校の校庭は広い田んぼで、そこを挟んで魯山人の住いとアトリエ、イサムと淑子の住いとアトリエがあった。気むずかしい魯山人もイサムにはとてもやさしかったそうで、イサムは魯山人の登り窯を使い陶芸作品を制作していた。時折魯山人から食事の招待があったそうで、田を挟んで合図があると云う。イサム、淑子は、今日の料理とそれらを盛り付けてある魯山人の器を想いながら、畦道を急いだのだろうか。イサムにとって家庭の幸せを味うことの出来たわずかな日々だったに違いない。
北鎌倉の円覚寺蔵六庵
1907年、イサムと母レオニーが来日して2ヶ月で、父米次郎はこの蔵六庵に執筆のためにと云って籠っていた。庵は円覚寺の中ほどに今も残っていたが、寺の人が居住していて遠くから眺めるのみ。小雨にけぶる木々の奥に、ひっそりとある蔵六庵。ここは夏目漱石も執筆のため一時逗留した事があったそうだ。イサムは小石川で母と暮らし、母は英語の家庭教師をしていたため、留守がちだったろう。さぞ淋しい思いで、北鎌倉の蔵六庵に居る父の事を想っていたのだろうか。
1907年頃、この五月の頃はうぐいすやほととぎすの鳴き声だけが聞こえたのだろうか。
小雨の円覚寺蔵六庵のほととぎすの鳴き声は、イサムの想いと重なって切なかった。
(横浜美術館市民ボランティア 新堀好子)
今回の探検隊は、イサム・ノグチの幼い頃育った茅ヶ崎を訪れた。
茅ヶ崎の前に藤沢本町にある常光寺を訪れ、ノグチの父であり、詩人であったヨネ・ノグチのお墓へ行った。ヨネ・ノグチの墓石は「品」のような形状をしており、二つの石の上に一つの石が橋のようにのっている。この墓石はイサム・ノグチがデザインしたものと言われている。イサムが「3」という数字にこだわっていたこと、ヨネ・ノグチが日本と海外の文化の架け橋をしたということから、3つの石からなり、橋のようにデザインされているお墓はイサムのデザインと推測できるが、定かではない。実際常光寺のご住職もイサムにお会いしたことがないそうだ。波乱万丈な彫刻家を生んだ父親のお墓にしては実にひっそりとたたずんでいて、静かに眠っているというのがヨネのお墓の印象である。
その後イサムが幼少時代を過ごした茅ヶ崎へ移動した。現在の鉄砲道と呼ばれるところから一本入った小さな道にイサムが暮らしていた「三角形の家」はあったと伝えられる。今はその場所は民家になっている。当時別荘地であったその辺りの別荘と別荘の間の三角形の土地に、母親レオニー、イサムと妹のアイリスは住んでいた。「三角形の家」はレオニーとイサムが建てた家である。イサムは大工と一緒に手伝いをしたそうだ。その「三角形の家」があったであろう道から海へ出た。現在の菱沼海岸である。遠くに烏帽子岩が見え、今では遊泳ができないその海で当時イサムは母親から泳ぎを教わったと言われている。
茅ヶ崎での幼少時代は混血児であることを理由に差別された辛い時期であるが、同時に日本の自然に触れる時期でもあった。探検当日、同じ空気をイサムも感じていたのだろうかと思いながら、当時もあったであろう大きな松やその周りの自然、潮風を感じた。(横浜美術館市民ボランティア 宮川朋子)