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2006年05月29日

イサム・ノグチ探険記5月20日no.8

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 今回の探検隊は、イサム・ノグチの幼い頃育った茅ヶ崎を訪れた。
 茅ヶ崎の前に藤沢本町にある常光寺を訪れ、ノグチの父であり、詩人であったヨネ・ノグチのお墓へ行った。ヨネ・ノグチの墓石は「品」のような形状をしており、二つの石の上に一つの石が橋のようにのっている。この墓石はイサム・ノグチがデザインしたものと言われている。イサムが「3」という数字にこだわっていたこと、ヨネ・ノグチが日本と海外の文化の架け橋をしたということから、3つの石からなり、橋のようにデザインされているお墓はイサムのデザインと推測できるが、定かではない。実際常光寺のご住職もイサムにお会いしたことがないそうだ。波乱万丈な彫刻家を生んだ父親のお墓にしては実にひっそりとたたずんでいて、静かに眠っているというのがヨネのお墓の印象である。
 その後イサムが幼少時代を過ごした茅ヶ崎へ移動した。現在の鉄砲道と呼ばれるところから一本入った小さな道にイサムが暮らしていた「三角形の家」はあったと伝えられる。今はその場所は民家になっている。当時別荘地であったその辺りの別荘と別荘の間の三角形の土地に、母親レオニー、イサムと妹のアイリスは住んでいた。「三角形の家」はレオニーとイサムが建てた家である。イサムは大工と一緒に手伝いをしたそうだ。その「三角形の家」があったであろう道から海へ出た。現在の菱沼海岸である。遠くに烏帽子岩が見え、今では遊泳ができないその海で当時イサムは母親から泳ぎを教わったと言われている。
 茅ヶ崎での幼少時代は混血児であることを理由に差別された辛い時期であるが、同時に日本の自然に触れる時期でもあった。探検当日、同じ空気をイサムも感じていたのだろうかと思いながら、当時もあったであろう大きな松やその周りの自然、潮風を感じた。(横浜美術館市民ボランティア 宮川朋子)

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イサム・ノグチ探険記5月20日no.7

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

『野口勇とイサム・ノグチ』

 今回は、イサム・ノグチが少年期を過ごした茅ヶ崎と父・野口米次郎の墓がある藤沢の常光寺を訪問しました。
 茅ヶ崎で過ごした少年期は、多感な年頃でありながら「日米混血児・野口勇」として苛められた非常に辛い時期でした。また、父・米次郎はイサムたちの来日当初のほんのひとときを一緒に過ごしただけで、茅ヶ崎に家を建てる前まで、イサムは母と二人で転々と引越しを繰り返す生活で落ち着く場所がありませんでした。しかし、母レオニーと共同で家(三角形の家)を建てることで、「家族としての共同作業」が行われ、また、家そのものが彼の場所となることで、自分の存在について確固たるものがなかった彼にとって、短いながらも幸せな期間だったのかもしれません。
 今は跡形もない三角形の家ですが、建てられたと思われる界隈は、海風と太陽とのんびりした雰囲気で、母レオニーの「自然の中でイサムを育てたい」願いがこの場所へと導いたのだと思いました。
 藤沢の常光寺にある父・米次郎の墓碑は、ノグチがデザインしたと伝えられていますが、ご住職のお話しによると、記録が残っていないためはっきりとは分からないとのこと。しかしながら、墓碑は長方体の石3個が『品の字』の形で組まれており、ノグチが終生追求した「石・数字の3」の特徴的な要素は見受けられました。
 前述のとおり、イサム・ノグチは父・米次郎と一緒に暮らすことができず、その後も父への複雑な思いを抱き続けました。その彼が、父の眠る墓碑をデザインしたならば、彼の中での父への和解がこの墓碑に表現されているのかもしれません。
 今回訪れた2つの場所は、茅ヶ崎はノグチが日本人野口勇として生きた地であり、一方で、藤沢は世界で認められた芸術家イサム・ノグチとして訪れた地であることから、対極的な思いが残る土地と言えます。彼の複雑な人生の中で、この2つの場所で得たものが芸術として表現されている作品たちを、もう一度じっくりと鑑賞したいと思います。
(横浜美術館市民ボランティア 上野志乃)

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イサム・ノグチ探険記5月20日no.6

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 今回のイサム・ノグチ探険隊は、藤沢・茅ヶ崎に行ってきた。
 まずノグチの父米次郎の墓碑がある常光寺へ。ノグチのデザインと言われている墓碑、そうならばなぜ彼はこの形にしたのだろう。四角い石が三つ、住職の表現を借りれば、「品川の品の字」に組み合わされている。
 彼の父への思いはどんなものだったのだろう。死んだ父に対する気持ちの表現がこの三つの組み合わされた石だとすれば、父、母、自分の三人がしっかりとつながりたかったということなのだろうか。想像するしかないが、でも本当にノグチのデザインなのかたしかめることは可能なのだろうか。

 次にノグチが幼少時過ごした茅ヶ崎へ。今はすっかり変わってしまったこのあたり。当時の松林と海のひろがる土地でイサム少年が感じたものはどんなだったのだろう。それはきっとノグチの作品の中に色濃く反映されていると思われるのだが、私にはそれを見つけ出すことはむつかしいようだ。もう一度「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」の作品を見つめ直したい気持ちになった。(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

投稿者 noguchi : 11:13 | コメント (0)

2006年05月24日

イサム・ノグチ探険記5月20日no.5

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 常光寺ご住職のご好意で本堂へ。イサムに関わる話が多く聞けると期待してました。この寺は三度火災で焼け、今は山門だけが当時のもの。
 イサムがこの山門を潜ったのは、1度あったかなかったか。父米次郎の墓は父の詩碑の上に三つの石を重ねてありますが、下二つの石は間をあけ、上に一つのせてあります。墓の前に立つと、石と石の間から向こうが見えます。風が通り抜ける。疎遠であった父に遠くも後も見てほしい、との願いだったと思うのは考えすぎでしょうか。 
 三角形の家(現存せず)の跡地は、このあたり、と思い、お隣の大きな別荘と言われた庭は、今でも樹木が生い茂っていました。三角形の家の二階の丸窓から富士山が見えたそうで、孤独だったイサムの心をいやしてくれたのもこの窓。母を待つための窓であったかもしれません。跡地と思われる所から菱沼海岸までは当時はもっと松林が続いて、松風の中、母レオニー・ギルモアと妹アイリスの三人で楽しい話をしながら歩いたことでしょう。烏帽子岩まで泳いだそうですが、1914年頃も今も波の高さと烏帽子岩はかわってないようです。(横浜美術館市民ボランティア 新堀好子)

投稿者 noguchi : 21:48 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月20日no.4

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】
 
 藤沢本町駅を出て、旧街道らしきバス通りを左方向へ10分ぐらい歩いた所に常光寺の山門がドーンと構えて私達を迎えてくれた。歴史を感じさせる荘厳な山門を入り、六地蔵の後に墓地がたくさんあった。学芸員の方はイサムの父上の墓をデザインしているので、すぐわかりますからとの事で、どんなのだろうか探してみる事にしたが、住職さんのお話を伺ってからだった。お寺の歴史、イサムの父上の事、色々一通り話されたが、なぜお墓のデザインをしたのだろうか?イサムの分骨もないとの事、お墓をみると三つの角石で出来ていて、二つの四角い石を両端にその上に長方形の石が乗り、ローマ字でサインのように父上の名が入ってモダンだった。作品の下は1mぐらいの台座に「詩」らしきものがはめ込まれていたが、イサムが、いつデザインし建立されたかは記されていなかった。三つの石で出来ているのは作品の「三」のこだわりなのか、それとも家族の絆(イサム、母レオニー、父)を表現したものなのか・・・・。イサムの事はプレートになかった。台座に義弟らしき方が施主とあるのみだったのは、淋しい気がした。
 藤沢に昔は宿場のみで有名なものがないのなら「イサム・ノグチのゆかりがある所です」とアピールするのも一つの方法かも・・・・。
 茅ケ崎に住んでいた頃の地は、面影はなく三角形の家は昔ありきで、土地も感じる事が出来ず松林公園の太い木々をみて、馬車の道か、けもの道を通学へ、海へ、と空気の良い自然の中で偏見と戦いながらも母レオニーと妹アイリスと三人でたくましくも、ハイカラな生活をし、成長して、自然の良さ、大切さを学び、作品にあらわれて行ったのではないかと思った。(横浜美術館市民ボランティア 成田幸)

投稿者 noguchi : 21:29 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月20日no.3

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 第2回の訪問先は、野口家所縁の「常光寺」(小田急線「藤沢本町駅」より徒歩約10分)から始まりました。イサム・ノグチが設計したと伝えられる、父、米次郎の墓前に立って先ず驚かされたのは、私が考えていた墓の概念からは、程遠いもので、仏教徒や、キリスト教徒のそれとは違うものでした。美術館のスタッフが持参された花の置場所にも戸惑うような墓碑で、まして線香を立てる場所すらなく、本当にこれはイサム・ノグチの設計によるものなのだろうか、と云う疑念に、しばらくの間囚われてしまいましたが、ご住職の話を伺った後、再度、墓碑を見直して、最上部にセメントで作られた3個の大きなレンガ状の物が載せてあり、又、野口家の菩提寺である常光寺側で勝手にこの変わった墓碑を作る筈も無く、これは、やはり3の数字に拘った彼らしい作品ではないか、と納得はしましたが、正直に申しますと私には芸術家らしい片鱗が余り感じられず、少し淋しい思いで、常光寺を後にしました。
 次に、少年イサムが家族と共に海水浴を楽しんだであろう菱沼海岸を訪ねました。茅ヶ崎で3番目に住んだ三角形の家(ここでも3の数字が重なり不思議な符号です)から、徒歩15分ほどの道程でしたが、途中には松林が広がり、往時は人家も疎らな上、車の往来も殆んどなかったでしょうから、少年イサムが駆け抜けて行けば、恐らく5分足らずの内に海岸にたどり着けたのでは?と、又、帰路には松林の中で、蝉、蝶々、かぶと虫などの昆虫や蛇等を追い回した挙句、数時間も掛かって帰宅したのでは?と、勝手に私の少年時代と重ね合わせながら、同じ道をたどり、再び三角形の家の跡地ではないか、と推測される場所を訪ねました。残念ながら、今回はイサム・ノグチの痕跡らしき物を、見いだすことは叶いませんでしたが、今から90余年前に、この三角形の家を、まだ10歳のイサム少年が母を助けて建てたそうですから、この時の体験が、3の数字に拘る、後のイサム・ノグチの原点になったのかも知れないなあーと、かなり想像を逞しくして、見学を終わりました。(横浜美術館解説ボランティア 匿名希望)

投稿者 noguchi : 21:23 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月20日no.2

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 電車に長いこと揺られ、都会の喧騒を離れて小さな駅に降り立つ。今回の調査場所となった藤沢も、茅ヶ崎も、何よりも印象深かったのが、開けた空の広さであった。高い建物が全く目に付かず、豊かな緑に囲まれ、のどかな時間が流れている。特に、イサム・ノグチが幼少時代を過ごした茅ヶ崎の地には、海岸沿いの街特有の風通しの良い、軽やかな空気が漂っていた。
 イサム・ノグチの彫刻の周りには、独特のエネルギーが流れている。そのエネルギーは、置かれるべき場所に、彫刻が置かれたときに、最大限の輝きを放つようである。以前、牟礼の生前のアトリエに足を運んだとき、そう強く感じたのを覚えている。彼が生活した空間には、常に場所へのこだわりが見てとれるようだ。茅ヶ崎、アメリカ、鎌倉、牟礼。日本の各地と異国の地を往き来する人生を歩んだイサム・ノグチは、場所や空間に、常に意識を配っていたのではないか、と思う。今回、ゆかりの地である茅ヶ崎の地を訪れてみて、イサム・ノグチの研ぎ澄まされた場所への感覚の原点は、ここの豊かな自然にあったのか、と頷ける調査となった。(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

投稿者 noguchi : 21:17 | コメント (0)

2006年05月23日

イサム・ノグチ探険記5月20日no.1

【調査地:藤沢・常光寺、茅ヶ崎・ノグチ旧居跡、菱沼海岸】

 イサム・ノグチが過ごした当時の茅ヶ崎は海と松林しかない静かな土地だったと思われます。それだけに米国人の母を持つイサム・ノグチに対する風当たりは強かったことでしょう。
 7歳から13歳までの小学生に当たる時期、自分の内面を形成したり、他者との関係を思い悩む時期ですから、疎外された記憶は一生心に残ります。
 そんな時期に見て遊んだ海や砂浜・松林は記憶の中に大きく刻み込まれたことでしょう。
 ただ、イサム・ノグチが住んだ「三角形の家」の跡地から菱沼海岸への道を歩くと、サーフボードを抱えたサーファーが行き交い、リゾートマンションが目につきます。茅ヶ崎はまた、他者に対して鷹揚な面も持つ土地柄なのかもしれません。
 「三角形の家」があったと思われる場所は現在全く普通の住宅が建っていました。意識して守らないとなくなってしまうものはあまりに多く、それらを残していくことが文化なのだなァというのが今回の探険隊の感想です。
                          (横浜美術館市民ボランティア 片平明子)

投稿者 noguchi : 20:52 | コメント (0)

2006年05月22日

イサム・ノグチ探険隊が5月20日に藤沢・茅ヶ崎を調査しました。

 5月20日(土)、雨ふりと雨ふりのあいだをうまくぬいながら、「イサム・ノグチ探険隊」は、イサム・ノグチの父野口米次郎の菩提寺である藤沢・常光寺と、幼いノグチが母レオニー、妹のアイリスと大正の初めに過ごした茅ヶ崎・東海岸と菱沼海岸を訪れました。
 今回の調査先、藤沢・茅ヶ崎は、いずれも幼少時のノグチの記憶や、家族への想いとつながりの深い場所です。残されたものは決して多くありませんが、ノグチの芸術の基礎を形づくった時代や風土との関わりなどについて、ボランティアさんから近々報告されます。ご期待下さい。
 なお茅ヶ崎時代のノグチに関する事前調査では、元茅ヶ崎市美術館館長の村山鎮雄さんと、茅ヶ崎市企画部文化推進課課長補佐の東哲郎さんにご相談し、貴重な情報をご提供いただきました。この場をお借りして御礼を申し上げます。(倉石信乃)

投稿者 noguchi : 20:52 | コメント (0)

2006年05月19日

イサム・ノグチ探険記5月13日no.11

『体感する:イサム・ノグチの自然』

 横浜にある「こどもの国」の一部がイサム・ノグチの構想によるものだとご存知でしたか?
私は『初耳』でした。美術が好きで、幼少から横浜で育ったのに・・と軽いショックを受けつつ、「こどもの国」へ向かいました。
 現存するノグチの作品は少ないと聞いていましたが、緑が濃い一角にあるノグチのプレイグラウンドは、それぞれの作品に存在感があり、「緑の中の美術館」の様でした(もちろん、ノグチの構想はあくまでも「子供の視線」が中心で、美術館という枠を超えたものを目指していたのですが)。
 なかでも、現在は倉庫として使用されている旧『公衆トイレ』は、地中に埋めた2対の壷を使ったユニークな作品です。白一色の空間は、壷内部の柔らかな曲線と天井にある丸い窓(写真:天井)からの自然光で、以前トイレであったことを忘れてしまうほど、清廉かつ暖かさがあり、しばらく言葉を失いました。2つの壷を合わせ、中心に柱を使わず、壁と床も垂直に交差していない内部は、一見素朴な印象を受けますが、じつは「構造的によく計算されている」(学芸員・中村さん)そうです。まさに、ノグチが目指した‘熟考された上で芸術として慎重にされる自然’が体感できる作品と言えるでしょう。
 同じく自然を感じさせる作品に、プレイグラウンドの入り口にどっしりと構えている『児童館の門』(写真:門)があります。遺跡の様な重量感と表面の緩やかな曲線、そして入り口側の少し左にずれた半円形は、門の先に広がる「別の世界」へと誘うような吸引力をもつ不思議な存在感があります。ノグチの言う「新しい時代(宇宙)と古い時代(原始)が融合した世界」と現実世界が切り替わる“境界”の様な存在なのかもしれません。
 現存する作品たちは、歳月を経て周りの緑や土に馴染むことで、新たな芸術的価値を生み出しており、サイトスペシフィックともランドアートとも異なる「子供に向けた」作品としても、美術史上で再考する必要があるのかもしれません。
 軽いショックを受けての訪問でしたが、優れた作品と豊かな緑に触れることで、すっかり気持ちが切り替わりました。帰り道、「こういう体験があるから、美術って面白いんだよな。」と独り言を言いながら・・・。
(横浜美術館市民ボランティア 上野志乃)

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旧「公衆トイレ」の天窓

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「児童館の門」

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イサム・ノグチ探険記5月13日no.10

活動日:5月13日
調査場所:こどもの国

 5月としてはとっても寒く、そぼ降る雨のこどもの国。どんな作品だろうかと期待しながら、キルト模様のお花畑を右に見て、児童センターあたりを目指して5分ばかり歩きました。左の小高い森の手前に、大型客船の煙突のような太いコンクリートが4本並んで見え、あれが作品かなと思いました。その右奥に丸いアーチ形が見え、そこへ行くまで垣根のような石垣のスロープが、右はなだらかな形でアーチまで続き、左は右の石垣よりずうっと高い垣根に、「倉庫」と書いた扉が2つ。アンティークなおしゃれな形でした。開園時は男女用トイレだったそうですが、今見せて頂くとその面影は全然なく、床はコンクリートが床上げしたように敷かれて見え、入口の所、少しの仕切りと天井があり、この曲線の美しさはヨーロッパの古いチャペルを連想させる小さな部屋です。天井が高く、外から見たあの煙突が天井で2個ずつ、音がとてもよく反響し、丸窓で、小さいガラスの丸がいくつもはめ込んであって、太陽があたった時、時間によっては斜線が何本も床に美しく変って行くのではないかと想像しました。ミニ音楽堂としても立派に使用出来るように思い、なんだかとてももったいないような気がして、出来ることなら公開してほしいと思いました。天井にあたる森、石垣の上にあがってみると、天井は4個あり、2個ずつ並んでいる姿は寄りそって見える角度もあり、「愛」を感じ取った気がしました。石垣の間を入って行くと、トンネルの形の丸みをおびた所。よくみると、また、曲線のやわらかさがあり、広さのかたちも変り、幅も変化を持たせていました。前に階段があり、子どもの目線になった時、「何がこの上にあるのかな?」「何が見えてくるんだろう」という楽しみを持って登るのではと思いました。登って行くと、少し右側に大きなおまんじゅう形のコンクリートがあって、穴が開いていました。ひとまわりまわってみると足掛けのあるすべり台と、下の方は通って遊べるデザインで、子どもたちが喜んで遊べる様子が伺えました。丸みといい、曲線といい、なんとも云えないやさしい感じが受けとれて、人柄や、子どもに喜びや期待を感じとってもらえる作品だったように思えました。
 児童センターの後に「切り通し」があったそうで、小川にかけた橋もデザインしたものと伺いました。今は木が茂み、橋だけ残っていたけれど、欄干は苔むし、やさしい曲線が美しく残ってはいましたが、橋に榾木が山として積まれ、まわりは椎茸の榾木畑と化して残念!!切り通し跡も少し行ってみましたが、笹や大木が茂りすぎてしまっていました。
 また、作品だった池も、かすかに石が囲い並んでいるのを確認しましたが、池というよりは湿地になって、あやめ科の花が植えてありました。現在の椿山の山頂近くからみてみると、大木の葉の間から見ると、あのおまんじゅう形の作品が、かいま見えました。学芸員の方のお話や、資料の数えるくらいしか残っていない現実に、年月の経過を感じました。
 公園を手がけたのは、世界に2つだというのなら、大変貴重な作品で、せめて「プレート」または解説をつけるべきではないかと思います。今、来園して来る人々は、ここにイサム・ノグチが携った作品があることを知っているひとはほとんどいないのではないかと思います。かく云う私も知りませんでした。だとするならば、アイディアとして、これ以上作品を少なくしないためにも、来園ウォーキングツアーとして、ボランティアガイドを利用するとか、こどもの国には世界で2つの作品のうち、ひとつのものがあるのですとか、案内物に変遷を載せるとか、これを機会にイサム・ノグチ作品をアピールするべきだと感じました。また、こどもの国へお天気の日に訪ねてみようと思いました。(横浜美術館市民ボランティア 成田 幸)

投稿者 noguchi : 15:09 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.9

 これまで美術館の中でしか、イサム・ノグチの作品を見た事がありませんでしたので、今回初めて野外に於ける作品群に出会えることに、かなりの期待感を持って参加致しました。然しながら作品群と呼ぶには、数点としか言いようのない数少ない作品が、それも、これがその作品のひとつですよ、とスタッフの方に教えて戴いて初めて判る作品もあり、正直淋しい思いをしたことは否めませんでした。それでも、数少ないその中に古代城壁の門とも呼べそうな作品(「児童館の門」)は重厚で存在感があり、まるで先史時代の石造物が発掘作業により現代に甦ってきたような錯覚を覚えました。
 又、当初トイレとして作られ、現在は物置として使用されている作品(旧「公衆便所」)の内部を特別に見学させて戴きましたが、ヨーロッパの田舎に見られるロマネスク様式の小さな礼拝堂を思わせ、美しい曲線と天井からの明かりが、狭い処に居ることを忘れさせる不思議な空間でした。そして、天井の“明かり取り”として作られた4個の煙突状の建造物は、近くから観察すると、まるで一頭の馬の“蹄“のようにも見えながら、部屋内部の明かり取りとしても、立派に機能していることが伺え、偉大な彫刻家にして建築家でもあり、子供の目線に合わせた作品造りは、立派な造形作家と呼んでも良いのではと思いました。それにしても、働き盛りの頃は、まだ反日感情の強かった時でもあり、又、一方この日本では、一切の遊具を排除し土地の起伏の変化を利用した公園造りは余りにも時代を先取りしていたのでは?と思えてなりません。近頃になって、やっと物質文明を避け一切の遊具を置かない様々な形態の公園が、一部に見られようになったことを思いますと、もし、イサム・ノグチが今も健在であれば、どんな作品をどのような形で我々に見せてくれただろうかと思わずにはおれませんでした。きっと彼は自分の作品を室内に置くよりは、公園の中で、子供たちの遊び道具のひとつとして、風景の中に溶け込んでいる自分の作品を選んだのではないか、と思いました。
 現在残されている彼の残した作品を見守り、後世にしっかり残すことが、私達のせめてもの義務ではないか、と思った次第です。又、こどもの国にもお願いして、園内の案内地図にも取り入れて、一般の方々にも紹介して戴ければ、と願っております。(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

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旧「公衆便所」の内部

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「児童館の門」

投稿者 noguchi : 14:12 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.8

 5月とは思えない冷たい雨の降る中、こどもの国へイサム・ノグチの作品を見に行ってきました。
 プレイグラウンド(遊び場)としてデザインされ、今は当時のままの姿ではないということで、残されたものを見ることになります。
 入り口を入り、中央広場を通り抜け、プール、スケート場の横を過ぎた頃、左に石垣が見えてきまた。その壁面にはノグチがデザインしたトイレへの扉があります。地中に埋まったツボのような形、今は倉庫として使われているとのこと、便器はなく,床はコンクリートでかさ上げされており、当時とは変わっているものの、壁面や天井へのカーブの美しさはとてもトイレとは思えません。その前をとおり、アーチをくぐり階段を上ります。このアーチを走ってきた子どもが通り過ぎる時は、わくわくしたでしょうね。そして、マンジュウ山があります。マンジュウ山は、中に滑り台があり、遊具なのですが、ぽつんとある感じがしました。それぞれは細かいところまでこだわりがあり美しいのに(微妙なカーブや三分割された部分など)、取り残されたような。でも残っているだけでも貴重なのですね。美術館で見る作品とは違う、自然の中の子どものための作品。みんなにもっと知ってもらいたいですね。できればもとの姿に戻すことができればよいのに。(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

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「マンジュウ山」

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旧「公衆トイレ」の天窓

投稿者 noguchi : 13:50 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.7

 緑の多いこどもの国にイサム・ノグチが設計したA地区がひっそりとある。完成当時のままではないが、現在残されているもので面影を窺うことができる。緑と合間に見える岩肌にノグチの石を使った遊具やオブジェが映える。そこはノグチの思想であふれていた。彫刻と空間の関係を考えた構造になっていること、地形を利用した空間であること、大地を母と見立てていること。
 スケートリンク脇の道を進んでいくと左手に石垣が見える。その石垣沿いに尖塔アーチ形の扉が数箇所ある。中に入ると天窓を施した空間がひろがり、当時トイレとして設計されたその空間は、中世ゴシック建築の教会堂を想起させるような湾曲した壁と側壁を持ち、天窓から降り注ぐ光は神秘的である。天窓は外から見ると円筒状になっており、大地から突き出たように見える。大地の下に広がる空間は母体のように感じられ温かささえ感じることができた。
 石垣を隔てたトンネルをくぐると不思議な感覚に襲われる。まっすぐに見えるトンネルが実際にくぐると湾曲している。子供の身長ほどにかがむとさらにそれを強く感じることができる。その道はその先にある遊具へのアプローチだ。右方向へ導かれるように抜けると、中が滑り台になっている「マンジュウ山」と呼ばれる遊具が現れる。半球が大地から顔を出したような山は、A地区の中心に「へそ」のごとく置かれ、山の周りには当時母親が集う広場があった。その配置からノグチが大地を母と考えていたことが窺える。
 今回こどもの国にこのような遺産があることを初めて知った。ノグチは生涯役に立つことを情熱の根底にした。子供が広い夢を持てるように設計し、随所にノグチの思想が表されたこの空間をより多くの人に感じてもらい、世界に現存する2つのうちの1つであるノグチのプレイグラウンドがすばらしい遺産であることを感じてもらえたらと思う。(横浜美術館市民ボランティア 宮川朋子)

投稿者 noguchi : 11:41 | コメント (0)

2006年05月18日

イサム・ノグチ探険記5月13日no.6

活動日:5月13日
調査場所:こどもの国

 こどもの国へは昭和40年頃に一度来たことがあります。長いすべり台のあったのを覚えています。
 今日来て改めてイサム・ノグチのこんなにすばらしい作品や遊具ができていたということを知りました。
 子どもたちがここで自由に遊べて、さまざまな空想ができるようにしてあること、特にトイレの作りは中世の教会を思わせるシャレた建物で、地上と地下のつながり方、地下は母親の胎内、地上はしっかりとささえている脚のつけねを表しているということ、地上から光がガラスを通して入ってくるようになっているのが印象的でした。
 こんなすばらしい作品が人の目にふれずに倉庫になっているということは、なんともったいないことでしょう。この文化都市横浜としては非常に残念だと思います。なんとか大事に保存しておいていただきたいと思います。(横浜美術館市民ボランティア 石渡淑子)

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旧「公衆トイレ」の天窓、地上に突き出た部分

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イサム・ノグチ探険記5月13日no.5

活動日:5月13日
活動場所:こどもの国

 「もったいない!」これが実地調査のいちばんの感想です。
 こどもの国は本当に子どもの頃から訪れた場所でした。小学校の遠足は、春・秋どちらかは必ずこどもの国でした。その後しばらく遠ざかりましたが、数十年後に子どもを遊ばせに、また度々訪れるようになりました。がしかし、イサム・ノグチのプレイグラウンドのことを知ったのは、今回初めてです。こんなものがあったとは!
 地形をいかしたプレイグラウンドの実地調査は、歩き甲斐がありました。大人は疲れてしまいましたが、子どもにすれば、ひたすら動きまわれて楽しい場所だと想像できます。土地の高低、スロープ、ぐるりとまわったり、身体を隠せる遊具や壁、走り回れる空地と、子どもの好きそうなものばかりでした。今も残っている「児童館の門」、すべり台の「マンジュウ山」、倉庫になってしまったトイレの建物など、それらが優しい曲線と考えられたアシンメトリー(非対称形)で地形をいかして配置されていた様子は、別世界のような所だったことでしょう。
 でも、イサム・ノグチはそのプレイグラウンドが有名なアーティストの設計であると知ってもらいたいと思っていたのではなく、ただただ無心に楽しく遊んだという経験と記憶を子どもたちに与えたかったのではないでしょうか。わたしが小学校の遠足で訪れたのは1970年代。イサム・ノグチのプレイグラウンドはちょうど土地に馴染んで遊び頃だったことでしょう。その頃出会えなかったのは残念です。まったくもったいなかった!
 今からでも、たくさんの人にこのプレイグラウンドのことを知ってもらいたい。そして、何よりもたくさんの子どもたちに遊んでもらいたい!と思いました。
(横浜美術館市民ボランティア 片平明子)

投稿者 noguchi : 10:33 | コメント (0)

2006年05月16日

イサム・ノグチ探険記5月13日no.4

 今から約40年前にイサム・ノグチの構想を取り入れて「こどもの国」につくられたプレイグラウンドを実地に調査する機会を得、ノグチの考えの一端を知ることが出来、貴重な経験をさせていただき有難うございました。現在残されているのはほんの一部にすぎませんが、「公衆トイレ」、プレイグラウンドの中心であったと思われる「マンジュウ山」、「水路」と「切り通しの橋」、「池」と「小川跡」などを見学しました。自然を生かし自然の起伏を上手に取り入れ、子供が自由に遊びを作り出せるように考え、そこで遊ぶ子供たちの視点に合わせてプレイグラウンドを造っていることにまず心を打たれました。現在の社会でのぞまれているスローライフ、LOHASな考え方に ピッタリ一致するようでした。このプレイグラウンドの「マンジュウ山」は、山の中に2本の滑り台がつくられていて,今も子供達に遊ばれています。これからもずっと残っていくことをねがいます。世界的な彫刻家の作品であるということもありますが,子供の目線でつくられており、遊ぶ子供の歓声が聞こえてきそうな気がします。「公衆トイレ」は自然の光を天井から取り入れて,斜めから入ってくるように採光してあるので大変やさしい感じがして,さらに内部の壁は直線ではなく曲線でまとめられていて,居心地の良いトイレであったろうとおもわれます。またこのトイレの一帯は当時の面影がのこっており、トイレの4つの採光塔、トイレにいたる壁、アーチ型の門など、文化遺産として来園者にアピールされてもいいのではと思いました。(横浜美術館市民ボランティア 原口加寿子)

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旧「公衆トイレ」、地上に突き出た部分

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旧「公衆トイレ」の入り口(緑色の扉部分)、アプローチの石垣

投稿者 noguchi : 21:10 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.3

活動日:5月13日
調査場所:こどもの国

 切り通しのように積み上げられた石塀に、斜めに切り込まれた慰霊碑のような存在感のある門。イサム・ノグチの仕事の凝ったディティールからは、こどもへの愛情と細やかな心遣いを感じ取ることが出来る。大胆かつ繊細な彫刻から放たれるエネルギーの全てが、プレイグラウンドのおへそとなるまんじゅう山へと向かっている。

 美術館から飛び出して、大地や空気を含めた空間そのもののデザイン設計が行われている、ここ、こどもの国では、イサム・ノグチの彫刻が呼吸している気がした。まるで大地の中で「生きている」彫刻といっても過言ではない。上下や左右の感覚から解き放たれて、踊りたくなるような自由さと浮遊感に溢れている。大地に直接根を張り、共生し、そのまま天上の世界、宇宙とつながっている。そのことをダイレクトに感じることの出来る空間であった。

 探検隊!第一回の調査場所がこどもの国だと知ったとき、正直なところ私は少し意外だった。小さい頃に訪れた記憶が残っているこどもの国と、イサム・ノグチがあまり結びつかなかったからである。北海道のモエレ沼公園が注目を浴びる一方で、イサム・ノグチが生前に手がけたプレイグラウンドが、こんなに身近に存在していることをどれほどの人が知っているだろうか。実際、こどもの国には、彼の構想の一部が残されている反面、流れる時のなかで改築が進み、失われた部分も少なくない。しかし、普段は倉庫として使用され、省みられることのなかった元便所跡に充ちる神聖な空間に今回足を踏み入れてみて、忘れ去られてはならない大芸術家のエネルギーと人間愛を感じずにはいられない経験となった。
(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

投稿者 noguchi : 20:14 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.2

活動日:5月13日
調査場所:こどもの国

 ボランティアにしては、ものものしい感じの名前のもと出発した。こどもの国、はたして探険になるのだろうか?冷たい雨のなか、歩き出し、少しずつ探険の意味が解った。
 つまり、実地にさぐり調べることだった。世界的に有名な芸術家の作品は、さぐり調べなければならない状態。
 イサム・ノグチ。13才まで日本で育ち、世界に名を馳せるようになって、日本の子どもたちのための遊園地を自分の構想で造ることは、どんなにうれしかったことだろうと思う。冷たい雨も忘れてしまうほど、その美しさに引き込まれていく。トイレといえどもトイレに行くまでの美しい石のアプローチに導かれて入る。そこは、小さな礼拝堂の様。天井からの自然光はやさしく暖かい空間、当時はもっと明るくやさ
しく子どもたちをつつんでいたに違いない。隅々まで心のこもったデザイン、線の美しさに心うたれる。またいつか子どもたちの声が、このなかで聞こえてくるようになることを願いながら、外ヘ出る。
 そして、マンジュウ山。そのすべり台に驚き感動。大地の母、そのなかは母の体内?子どもが入口から体をすべらすと、薄暗い穴のなか、そして出口の明かりに向かってすべり出る。これがマンジュウ山の中で交差している。こんなすべり台、見たことがない。足をかけて登る石には、ちょうど子どもが足をかけやすく、やさしくそしてスマートなデザインであった。
 今は建物の裏になってほとんど人目につかないところにも、ノグチの作品はあった。
切通しの山へ登る小さな橋、その手摺も子どもの手にやさしく面取りの様にしてある。悲しいことに、今はしいたけの原木をささえていた。
 これら、すばらしい芸術家の作品が消えてしまわないように、多くの子どもたちが造形の美しさを感じてほしいと思う。
 帰りの雨、ことのほか冷たかった。
(横浜美術館市民ボランティア 新堀好子)

投稿者 noguchi : 19:52 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険記5月13日no.1

活動日:5月13日
調査場所:こどもの国

子どもの国のプレイグラウンドは、イサム・ノグチの今まで見てきた作品とは、少し異なる印象を受けました。
・旧公衆トイレ。これは、洋梨型の壺とでも表現したらいいのでしょうか。内部は、曲線・直線を駆使した美しいものでした。上部に突き出た煙突状の天井には、丸いガラスがいくつもはめ込まれ、そこから光がさしこんでいるのです。子どもたちにやさしい雰囲気をあたえたことでしょう。現在はトイレとしての使用も公開もされていませんが、ノグチの作品として公開されることを希望いたします。
・マンジュウ山。外見はまるいコンクリートの山で、子どもの遊具として見てしまうとノグチの作品と気付かないと思います。マンジュウ山の上部の穴より入るすべり台、それを3分の1クロスするかたちでカーブしたトンネル、この2つで構成されています。トンネルの出入口とすべり台の出口、この3カ所で円形がきれいに3分割され、トイレ同様、細部にわたり細やかな心遣いが見られます。ノグチが日本の子どもの遊び場として、こどもの国につくったプレイグラウンドは、子どもの視線に合わせて、子どもたちに夢を持たせるように工夫した造形で、他にはないのではないでしょうか。
 子どもたちに対するノグチの深い愛情に感銘いたしました。他に土地の起伏の変化だけで、さまざまな遊びができるよう計画されていたそうですが、実現しなかったことは残念に思いました。
(横浜美術館市民ボランティア 匿名希望)

投稿者 noguchi : 19:42 | コメント (0)

イサム・ノグチ探険隊始動!

横浜美術館市民ボランティアのみなさんとイサム・ノグチ展担当学芸スタッフにより結成された「イサム・ノグチ探険隊」。そんな探険隊が、5月13日、第1回目の調査地である《こどもの国》(横浜市青葉区奈良町700番地)を訪れました。こどもの国は、1959年の皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚に際して全国から寄せられたお祝い金をもとに、1965年にオープンした施設です。その一部に、1965年から1966年にかけて、イサム・ノグチのプレイグラウンド(児童遊園)がつくられました。オープンから40年以上経った現在、ノグチの作品はどのようなかたちでのこされているのでしょう?あいにくの天気にもめげることなく、模型写真や竣工時の写真を手に、探険スタート!
 
 今回の探険には、展覧会の準備段階から協力していただいている社会福祉法人こどもの国協会の松崎さんにご同行いただき、普段は入れない施設へも足を踏み入れて調査させていただくことができました。確認できたノグチ作品は、現在は倉庫として使用されている旧公衆トイレ、児童館へとつながる門、プレイグラウンドの「おへそ」のようなマンジュウ山など。プレイグラウンドのすべてがのこされているわけではありませんが、地形をいかして、子どもたちが自由に遊び、大地と触れ合うことのできる空間がそこにはひろがっていました。

 今後、イサム・ノグチ探険隊は、ノグチが幼少期を過ごした茅ヶ崎や、陶芸作品を制作した鎌倉などを、実地に調査する予定です。今回の調査結果もふくめ、『イサム・ノグチ探険記』として、このブログ上や横浜美術館内の展示パネルにて順次発表していきます。ぜひチェックしてみてください!(大塚真弓)

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写真キャプション:世界一美しいトイレに見入る探険隊

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大地母神ガイアのおへそ!?《マンジュウ山》

投稿者 noguchi : 19:22 | コメント (0)

2006年05月09日

関連事業のあれこれ

去る4月29日(土)、当館レクチャー・ホールで、写真家の安斎重男さんの講演会「イサム・ノグチ:マイ・フェイバリット・ショット」が開催されました。安斎さんとイサム・ノグチとの信頼関係の中から生まれた魅力的なポートレートをスクリーンに投影しながら、興味深いエピソードの数々をお話しして下さいました。都内でエンストした安斎さんのクルマを、同乗していた80歳を過ぎたノグチが、後から押してくれたお話など、いつも若くエネルギッシュなノグチの横顔がかいまみえる、貴重な講演でした。
 橘学苑高等学校の皆さんをはじめ、若い方々も多い会場はほぼ満員の盛況でした。
ご来場いただいたみなさま、どうも有り難うございました。
 さて、イサム・ノグチ展では5月・6月もさまざまな関連イベントをご用意しています。5月中旬からは、このブログ上で、横浜美術館の市民ボランティアのみなさんが、横浜・神奈川のノグチゆかりの地を「探険」し、随時レポートします。
 5月26日(金)18:30~19:30には、笛奏者の雲龍さんによるミニ・ライヴ「光と影にひびきあう」を、イサム・ノグチ展の会場で開催します。
 6月4日(日)14:00~15:30には、当館学芸員の中村尚明によるスライド・レクチャー「ふしぎの国のイサム・ノグチ」がレクチャーホールで行われます。
 (倉石信乃)
 
 写真: 安斎重男さん、4月29日の講演会にて。
anzai1.jpg

投稿者 noguchi : 18:03 | コメント (0)

2006年05月02日

イサムズ・ウィークリーの創刊にあたって

みなさんこんにちは。横浜美術館「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」の担当学芸チームと市民ボランティアによるブログにようこそ。このブログでは、チームメンバー4名の手記と、横浜美術館市民ボランティアの方々による「イサム・ノグチ探検記」を順次掲載していく予定です。私は担当チーフの中村と申します。本展会期中毎週1回更新を目指してチーム一同がんばりますのでどうぞよろしくお願いします。

 さて、本展もオープンして早くも2週間が過ぎました。ちょっと遅れてしまいましたが、最初にこの展覧会の開催経緯を簡単に述べさせていただきます。横浜美術館でイサム・ノグチの企画展を実施することは、6年越しの念願でありました。ノグチは横浜と神奈川にゆかりの深い世界的彫刻家です。少年時代を茅ヶ崎で過ごし、横浜のインターナショナルスクールに学んだことがあります。1951年には女優の山口淑子と結婚して、鎌倉市山崎の北大路魯山人邸の離れで新婚生活をおくったこともあります。1965年から1966年にかけて、横浜市青葉区の「こどもの国」のために、プレイグラウンド(遊び場)を制作しました。これらを踏まえ、横浜美術館には開館と相前後して、≪真夜中の太陽≫や≪下方へ引く力≫など、イサム・ノグチの作品計6点が収蔵されました。それらは館内に常設展示されてきましたが、収蔵作品の魅力と作家についてより深く知っていただくためには、総合的な視点から紹介する企画展が効果的です。幸運にもニューヨークのイサム・ノグチ財団の理事をしておられるトーマス・メッサーさんに3年間にわたってゲストキュレイターをお願いする機会を得て、展覧会プランに先だって作家と作品の基礎研究を行うことができました。2004年がイサム・ノグチの生誕100年にあたりましたが、諸般の事情で2006年に開催することになりました。幸いなことに、イサム・ノグチの作品を収蔵する滋賀県立近代美術館と高松市美術館が共同開催してくれることになり、2004年以降は3館で準備を進めてきました。ニューヨークのノグチ・ミュージアム、牟礼のイサム・ノグチ庭園美術館、香川県文化会館、ニューヨーク近代美術館、ニューヨークのジャパン・ソサエティー、同じくマーサ・グラハム・スクール・アンド・ダンス・カンパニー、東京の草月会をはじめ、日米あわせて17箇所からご出品をいただき、開催3館の所蔵品を加えて76点(内参考出品4点)で構成しています。最近2年間に、イサム・ノグチの展覧会が欧米や日本でいくつか開かれてきましたが、そのいずれとも異なるオリジナルの企画展です。
 前置きはこのくらいにしまして、今回は本展のテーマ別展示についてお話ししましょう。
 かつて「近代彫刻-オブジェの時代」展を担当したときには、グループ展でしたので、作家毎のまとまりを保ちながら考えかたの近い作品同士をグループ化する展示を行いました。このときはひとつひとつの作品の形が分類の指標として大きな意味を持っていました。
 ノグチの作品は、常設展示で何度か展示替えをしてきたのですが、形として見ていると、どうにもとりとめがなくて、なかなか満足のいく展示ができずにいました。横浜美術館の6点の作品がそれぞれちがう系統の形であるということもありますが、見方によってはどれもあまりに単純な形で、あるいは建物との相性がうまくないのか、どこに置いても周囲が気になって、おさまりが悪いように思われたのです。
 今回の展覧会の準備段階で、イサム・ノグチがのこした文章を読む機会を得ました。ノグチの言葉は対談においてさえも論理的で、しっかりした信念をもった明晰な人であることがよくわかります。その中で、「ものとものとの間の空間が彫刻的なのだ」という意味の言葉に出会いました。「人と、作品と、空間のリレーションシップ」という言葉も印象的でした。なるほど、今まで自分はいつもひとつの作品だけをクローズアップして分析しようとしていたが、そういう見方ではいかにたくさんのノグチ作品を見ても彼の真意はわからないのだ、ノグチはむしろ作品を置くことでその場の空間を作り替えようとしているのだ、ということに気づきました。
 ノグチは、「作品が生きる」ということを繰り返し強調していました。彼は美術館での展示について懐疑的な言葉をのこしています。通り一遍の展示では自分の作品は生きない。作品は一握りの人たちのための飾り物ではないのだ。美術館の中では自分の作品は死んでいる、というのです。これは学芸員にとってはとても重たい言葉です。作品の配置までノグチの創作行為が及ぶとすれば、後世の私たちはどうしたらよいのでしょうか。
 美術館に対するノグチの批判的姿勢は、おそらく作品を剥製や植物標本のように展示してほしくない、という気持ちに基づいていたのではないかと思います。作品を生きたまま、というより作品が生きるように展示するにはどうしたらよいか。逆の発想で、どうするとノグチの作品が死んでしまうかを考えてみました。年代順、技法別、形による分類は、いずれも植物図鑑や昆虫標本のような第3者的な指標に基づくもので、客観的にひとつひとつの作品を分類することにかわりはなく、今回のノグチの展覧会にはふさわしくないように思われました。
 最終的にテーマ別の展示を採用することになりました。ノグチの作品は、ひとりの天才芸術家個人の表現であるよりも、常に普遍的な真実を主題にしているといえます。そのことを彼は「リアリティー」とか「世の中のスケールの一番大きなところ」と言っています。たとえば、中世ヨーロッパのキリスト教美術や、古代ギリシア美術と社会の関係を思い浮かべることができます。誰もが共有できる大きな世界観なり、真理があって、芸術家はまずそれに奉仕するために作品をつくっていたので、芸術は社会にしっかりと根付いており、芸術家もコミュニティーの一員として重要な役割を果たしていました。ノグチが世界各地の宗教的な史跡や神域を見て歩いたのは、そうした芸術のあり方に高い関心を寄せていたからだと思われます。ノグチの作品とタイトルを見ていくと、大きな共通項が見えてきます。「顔」や人間の身体の「変容」にかかわるもの、神話や民族的伝統にかかわるもの、社会的なメッセージが込められていたり公共の役に立つもの、自然や生命に関するもの、といった分類ができるとわかりました。こうしたテーマは、特定の時期や技法の作品だけに固有なものではなく、制作時期や形式を超えて継続しているということもノグチの芸術の特徴であると思います。   (中村尚明)

投稿者 noguchi : 11:59 | コメント (2)