小林清親 「東京新大橋雨中図」1876年、21.5センチ×33.2センチ
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「光線画」に漂う明治
小林清親は、弘化四(1847)年、下級武士の子として本所御蔵屋敷(現在の東京都墨田区)に生まれた。明治維新後しばらく静岡に身を寄せたり、剣術興行団に加わって地方を巡業していたが、本格的に絵画の道に進む決心をしたのは、旅の途中で当時まだ珍しかった写真を偶然目にし、そのリアルな陰影や立体感に深い感銘を受けたからだと伝えられる。
画家になる志を胸に明治七(1874)年ころ東京に戻ると、早速、横浜の写真家下岡蓮杖の門をたたいた。また、同地に住んでいた英国人画家で特派員であったチャールズ・ワーグマンに近づき、油絵や水彩画を学んだといわれている。
清親はまた日本画家の河鍋暁斎との親交を通して、暁斎の最初の師であった歌川国芳の情感あふれる浮世絵の世界を知ったと思われる。西洋画や写真への興味は、浮世絵という表現手段を得、明治九(1876)年、版元大黒屋松木平吉から「光線画」と称して出版された西洋風東京名所図に結実する。
当時の浮世絵は、新しい印刷機の普及によって衰退し、派手な色彩で舶来の珍しい文物を伝える報道画やどぎつい図柄の風刺画に堕していた。その中で、文明開化の町並みや風俗を光に満ちた叙情的世界として描いた清親の浮世絵は、新しい版画芸術として大好評を博し、明治十四(1881)年まで次々と新作が出版された。
「東京新大橋雨中図」は、最初に発表された五点の「光線画」のうちの一つである。雨の中の橋の情景といえば、初代広重の「大橋あたりの夕立」がすぐに思い出されよう。しかし清親は、線と色面そしてぼかしによる色の濃淡という従来の浮世絵の技法に従うだけでなく、全体を統一する穏やかな色調、雲の動きと明暗によるドラマチックな空の表情、水面の光の反映、ゆらゆらと映る橋げたや船の影など、英国水彩画や写真から学んだ要素を加えて、新しい風景版画を作り出したのである。
激しい雨脚も遠ざかり、細かな霧雨に変わったころであろうか。蛇の目傘をさす人々の姿で、わずかに残る雨の気配が暗示される。明るくなった空を見上げる川岸の女性。驟(しゅう)雨がもたらす緊張が緩み、あたりに漂う安堵(ど)の感は、明治維新の動乱から九年たった新東京の空気そのもののようにも思われる。
(横浜美術館学芸員・沼田英子)(出典『神奈川新聞 1995年(平成7年)7月6日木曜日付け』より)
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