Catch UP? イベントレポート

創造界隈で行われたイベントを記録写真でレポート。

YCCセミナーvol.1

「創造性」、「地域資源」、「コミュニケーション」をキーワードに、全国的に大きな話題を呼んでいるプロジェクトのキーパーソンから具体的な取り組みを聞く場を設ける3回シリーズ。 第1回は、越後妻有アートトリエンナーレのディレクター、北川フラム氏が登場。「大地の芸術祭」を核として紡がれた地域、サポーター、そしてアーティストの協働と共感。現代アートは、里山と住民に何をもたらしたかが紹介された。この、北川氏の講演の抄録を以下に掲載する。
日時: 2009年11月22日(日)
会場: ヨコハマ・クリエイティブシティ・センター
講演: 北川フラム氏(アートディレクター、アートフロントギャラリー代表)

今日はお招きいただき、ありがとうございます。
横浜は、いろんな意味で縁が深く、親近感を持っている場所です。冒頭にご紹介いただいたアパルトヘイトの展覧会(※1988-1990「アパルトヘイト否!国際美術展」)もここでやって、そのときにバックボーンになってくださったのが、Bゼミの小林さんでした。
横浜は地域づくりに関してずっと行政が意識的で、質的にも日本最強の自治体だと思っていますが、Bゼミなどの流れがあって、日本の中では今もっとも元気のいい街だと美術界では思われていますし、実際にそうだと思います。ですが、やはりさまざまな問題もあるわけですね。そういったことで、今日は皆さんにも関係のあることを少しお話したいと思います。

均一化、画一化されていく現代の世の中で、大げさに言えば、僕はアートだけにしか展望がない、と思っています。アートだけが人と違って喜ばれる唯一のジャンル、分かりやすく言えばそうです。その他のジャンルは、「正しい」、「早い」、「モデルに近い」とか、そういう価値観で褒められる。そんな世の中になってきていると思います。
日本も政権交代しましたが、少なくともこれまで、どういう人間をつくろうとしてきたかといえば、「数パーセントの指導層と15%くらいのテクノクラートがいて、残る80%くらいは置き換え可能なロボットをつくろう」、これが日本の教育ですね。
あるいは、私達の価値観は、とにかく最新の情報があるところに、最短でアクセスすることが価値ですね。だってそれが儲かるから。例えば、六本木ヒルズがあれば皆そこへ行く。というのは最新のブランドが一番集まっていて、一ヶ所にあるから。次にミッドタウンがあれば、もっと新しいから、みんなそこに行く。それから、ほとんどの人は、携帯でメール打ちをやっている。これで繋がっている友達が友達であるわけがないけれども、皆、孤独の中でそのマニュアルを打ち続けている。つまり、私達は、チャップリンの映画「黄金狂時代」で提示されたような時代を、本当に進んでいる。そしてなおかつ、ロボットにされているという自覚は全くない。

「人間って皆違う。違う人間が皆で一緒に社会をやっていくのは手間がかかるし、大変なことだぞ」。それを忘れるような仕組みになっている今の時代の中で、美術だけが、もしかしたら、「人はみんな違うんだ」ということを根底に哲学として持つ唯一のジャンルではないか、そう僕は思っています。だからこそ、美術というものを、問題があるとしても、ただひたすらに僕は応援したいし、一緒にやりたいと思っています。けれども、やはり大変ですね。それを前提に、美術への愛情を持ちながら、敢えて今日は恨みつらみのほうをお話しようと思います。

明治維新のとき、それまで日本社会は地域や階層に分かれ、言語形態や思考形態も異なっていましたが、一方で、地域に根ざした藩校や寺子屋などがあり、農村の若者もそれなりにいろんなことを考えていた。皆がそれぞれの立場で責任というものを持ちながら、一生懸命働いている。そんな中で、天候が農耕にダメージを与えたり、本当にどうしようもない状況になったりする。でも、諦めてまた稲を植え始める。本当に大変なことですが、「働く」ということにそれなりの意味があり、自分の立場の中に責任がある。そんな社会だったからこそ、言語形態が全然違う中でも明治維新時に、いろんな層の誰もが各々の立場で、すごいレベルで物事を咀嚼できていた。
あるいは、僕は戦後すぐの生まれです。少なくとも僕が小学生までは、いわゆる読み書きや算数では、日本は、おそらく世界でトップクラスの学力を有していた。それが今では30位以下です。人口が1億2千万人もありながら30位まで落ちるというのは、本当にあらゆる人が何も考えなくなったということではないでしょうか。特に今の40代以下の人達は、マニュアル以外の勉強や考え方をしたことがほとんどないと思う。マニュアルをいかに早く正確に押さえるか、だけが意味を持つ社会になってきたわけですね。
では、どうしてそうなったか。戦後60年間、地政学的に冷戦下の防波堤であるという理由だけで、あらゆる富がほぼ日本に集中した。それを私達は努力した結果だと思っている。もちろん、私達の親までは努力した。でも僕は戦後すぐの生まれですから、努力したことは一度もないです。なんとなくここまで来ちゃった。おそらく皆がそうだと思います。あまり困ることもなく、富が集中するような環境の下、私達は馬鹿になってきた。
ということは、日本には、世界全体で見られるグローバリゼーションのさまざまな問題に加えて他の問題もある、ということです。これを前提として意識しなければ、「フライパンの上で、なんか本当は熱くなっているけれども、誰も気づかずにいろいろ遊んでいる」状態です。そんな国であるという中での「地域づくり」や、「アートの話」だということを考えないと、いろんなことは全部だめだと、僕はそう思います。

美術―パブリックアートの話
では、美術に特化して、パブリックアートの話をさせていただきます。 アートは、美術館やギャラリーの中で守られてきました。評論家、アーティストあるいは画壇という一つの世界の中でのやり取りで、需要供給が全くない。先生に師事して、真面目に絵を描いていれば、知らない間に芸術院会員になるというヒエラルキーがあって、「売れる、売れない」とういう関係では成立していない。これが、日本でずっと行なわれてきたことです。もう一つ、アートマフィアというものが世界全体、特に欧米にあります。アートマフィアが流行を作りながら、美術界を動かしている。アートマネージメントとかアートディレクターとかを目指している人の中で、美術がなぜ成立しているかを考えている人はほとんどいない。外国の流行を知っているか、流行の摂取度が美術の知識や実力と思われている。そんな仕組みが、今の日本にあって、その中でアートは守られている。 唯一守られていなかったのが「パブリックアート」だと思います。ギャラリーや美術館の中にあって守られていたものが、街中に置かれた瞬間に、「邪魔だ」、「嫌い」とか、「いやらしい」などと言われる。でも、私は、これをやっていくと美術は多少面白くなるはずだと思います。美術はもっと「ダメ」とか「いい」とか、「好き」とか「嫌い」とか言われるべきで、裸の王様はやめたほうがいい。それで、パブリックアートは面白いんじゃないかと思って、僕はいろんなことをやりだしたわけです。

日本のパブリックアート

船越保武《長崎殉教者記念像》, 1962

日本のパブリックアートの代表作は、1962年の船越保武さんによる長崎26聖人の像だと思います。船越先生は、豊臣秀吉の時代に長崎で処刑されたキリシタンの像を造り、ここに原爆投下で犠牲になった人達を重ね合わせた。当時の時代精神というものが、作家の意識と一緒になっていた非常に珍しい時代です。共有の意識、共同体の意識がそれなりに成立していた。


佐藤忠良《緑の風》,1978


これは、仙台メディアテークのある定禅寺通りある佐藤忠良先生の作品です。見事な像ですが、こういった裸像は、今では絶対作らせてもらえません。
この頃が最後の華で、以後、共同や共有というものの意味は、私たちの中から失われていきます。非常に分かりやすい例は、鳩です。ピカソがよく鳩を使っているけれども、現代の人たちは、鳩=平和の象徴だなんて、もはや思わないでしょう。これが私たちにとって、非常に大きな時代背景となっていることは留意すべきでしょう。公共的なアートにとって、いろいろな意味で難しい時代を迎えていると思います。

1965年には疲弊した街や人に元気を与えようと、宇部や須磨で公園を舞台にした彫刻展が始まりました。ここでは、石を丁寧に丹精こめて形づくった作品や、ステンレスを非常に美しく磨いた作品が生まれました。駅前などでよく見られますが、この2つが日本中に一挙に広まりました。日本スタイルとも言えるほどで、外国にはあまりありません。ニュートラルな、均質な場としての「公園」という公共空間の中で、これは有効だったからです。
日本は、戦後の景気上昇の中で、1988年にふるさと創生事業をやりました。人口1000人の町にも東京都にもとにかく1億円やるぞというものです。そういう時代のパブリックアートの流行は、景勝の地に作品を置くということでした。そうやって日本各地で、公園や景勝地にステンレスや石のパブリックアート作品が展開されました。ちなみに、横浜は最初にやった街の一つで、区ごとにパブリックアートがあります。

海外のパブリックアート

このような流れの中で、僕はいろいろ考えないといけない事態に遭遇しました。で、外国のパブリックアートのことを調べてみると、ものすごく面白い話があるわけですね。

ミネアポリスの橋

シア・アルマジャーニ
《イレーヌ・ヒクソン・ホイットニー橋》

これはアメリカのミネアポリスにある、シア・アルマジャーニという作家の作品です。二人がすれ違ってやっと行き来できるほどの狭い橋です。
ここには、街を南北に分断する15車線ほどの巨大な道路があって、この南北の地域落差が、街づくりの中で決定的な阻害要因になっていました。 開発の相違、経済的な落差、あるいはもっと時代的な偏見など、南北の住民対立が絶えない。そんな街に、シア・アルマジャーニは、二人しか通れない橋を提案しました。当然、政治家や行政など大多数の人は反対します。お金の価値観による判断だから、「こんな二人しか通れないような橋なんか造ってもお金の無駄だ」と。
でも、ミネアポリスではなんとか橋ができました。そのとき、橋の建設をめぐる大論争の中で、次第に「そもそもこの南北の格差はなんだろう?」とか、さまざまなことが話し合われるようになった。これがその後のミネアポリスをものすごくいい街にした。なぜよくなったか。そこにアーティストのすごさがあります。シア・アルマジャーニが、なぜ二人しか通れない橋を造ったのか。南北に分かれた集団としては対立し、「あんな橋なんて死んだって渡らない」と言っても、日常生活の中では渡ることもあって、結局、行き交いが始まる。狭い橋の上で毎朝同じ時間に顔を合わせるうちに、「やあ」って、会釈くらいはするようになる。集団から個人になったとき、本能的に「こんにちは」とか言うようになる。これが、シア・アルマジャーニがやりたかったことです。アーティストという、ほとんどどうしようもない人間だからこそ、こんなことが面白いと思ったわけです。パブリックアートの最大の作品だと思います。

パレ・ロワイヤル

ダニエル・ビュレンヌ《パレ・ロワイヤル》

ダニエル・ビュレンヌのパレ・ロワイヤルの作品です。隣にはルーブルがあり、年間500万人以上の人が訪れる一方で、パレ・ロワイヤルには誰も来ない。ここの下を通る地下水路を直すためにパレ・ロワイヤルの広場の人工地盤の工事をすることになった際に、公募によりダニエル・ビュレンヌが起用され、作品を作ることになった。この作品には、人工地盤を支える柱、イス、なおかつ照明という3つの機能があります。ところが、当時のシラク・パリ市長が「こんなパジャマみたいなの、ダメ」と反対した。これに対してアーティストや文化人が、「政治家が口を出すな」と徹底的に応援して実現した。ボーボワールやシャンソン歌手のジュリエット・グレコなんかもです。これはフランスのすごいところです。そして作品が評判になり、パレ・ロワイヤルにもカップルなどが来たり、賑わいが生まれました。
この成功を契機に、フランスは文化の方針を大転換させました。初年度から30億に近い予算を使って、歴史的な古い建物を壊さずに活用することを始めました。お城、工場、学校、病院、あらゆるものを壊さずに、国内外のいろいろなアーティストに委ねた。これでフランスの各地が元気になりました。そういう流れが、今の「クリエイティブシティ」や歴史的な「地域見直し」というような流れにつながっています。

日本でも、たとえば岡本太郎さんの太陽の塔は、「あんな馬鹿みたいなものを作ってはならん」と美術界や文化界など政治的な世界の人からコテンパンに叩かれました。でも、万博を手掛けた丹下先生に師事した世代、大岡信さんや中原佑介さん、武満徹さん、磯崎新さんといった、岡本太郎がすごいということを理解した人たちの支持があって、実現しました。岡本太郎は縄文を発見し、沖縄を評価した人です。アートというのは、「人はみんな違う」ということに属するものだと日本で最初に言った人だと思ってもいい。徹底的に文句を言われた太陽の塔だけが今も残っているのは面白いと思います。

パブリックアートは、作ることに意味があるのではなく、作ろうとするときに浴びる徹底的な反対こそが、重要だと思います。越後妻有も始めはそうでした。4年半の間に、2千回を超える説明会をやりました。これが、越後妻有が良くなった理由です。アートで一番重要なことは、「全員反対する」こと。アートだけが悪いわけじゃないけれど、行政に対する100年の恨みで、アートというほとんど意味のない、実質的に効果のないものが出てくると、全員反対する。これがアートのよさです。

 

ワロンの食堂

ラウル・マレック《世界の部屋、ワロンの食堂》

これは、僕の大変好きな《ワロンの食堂》という作品です。ワロンは、フランスの小さな城郭都市で、過疎化が進んでいましたが、ラウル・マレックという人が作品を手掛けたことで、非常に人気になった。彼は、絵描きである自分が出来ることは何かと考えて、村人全員の横顔を描き、村にある古城に飾りました。ここでは一年に一度、村の住民だけが食堂に集まって会食をします。住民たちは、この城で生きていたかもしれない先祖に思いを馳せながら、自分達のコミュニティというものをもう一度考えるようになりました。パブリックアートの最高傑作だと思います。


ミュンスター彫刻プロジェクト

1977年から10年に1回、ドイツのミュンスターで彫刻コンクールが行なわれています。僕が大地の芸術祭やファーレ立川をやる上で、大きな影響を受けたプロジェクトです。

ミュンスター野外彫刻プロジェクト /
ダニエル・ビュレンヌ
ミュンスター野外彫刻プロジェクト /
キース・へリング

1987年のダニエル・ビュレンヌの作品で、彼は緑白、赤白の4つの門を街の中に造りました。これをよく調べると、すごいことが分かります。この門の立つ地は、かつてナチスドイツがユダヤ人や少数民族を隔離したゲットーがあった地の出入り口です。パブリックアートだから、グロテクスな「ナチスをゆるさないぞ」なんてことは書いてない。一見気持ちのいい作品ですが、実は「忘れてはいけない」というメッセージが込められている。ここにおいて、美術というのは「私たちの過去の記憶」、あるいは「同時代における少数者の意見」、あるいは「未来への不安」というものを身体なかんずく手を通して表す。これは、美術の一つの働きだと思います。

これもミュンスターの、僕が一番好きな作品です。約1000年前のドイツの農家をスケッチした作品で、私たちは、材質、建築様式などに着目しますが、キース・へリングというアーティストは、犬の彫刻を作った。(ミュンスター1987《ランドイス教授のための赤い犬》) この農家が1000年続いてきたということはつまり、この家の中で何代も繰り返されるドラマがあった。 私達は一人一人を知らなくても、ここに子どもがいて、おじいちゃんおばあちゃんがいて。時代は違っても、今と何も変わらないはずです。つまり、アーティストが見たのは、この家に生きた家族の営み、連綿と続く一人一人の思い出です。では、この人たちをことごとく扱うためには何ができるか。猫も犬も飼っていたに違いない。じゃあ、彼らにもう一度犬を捧げよう。彼は、犬を置くことでこの家で営まれてきた人々の生を表現したのです。
僕は、これが、アートがやっていることだし、こういうものを見たいなと思います。このレベルでモノをやらなければだめだと本当に思います。

ファーレ立川―街全体が美術館

ファーレ立川

そんなことを勉強して、1982年から1994年にかけて「ファーレ立川」をやりました。当時は、1989年のベルリンの壁崩壊や1991年のソ連邦解体などがあり、グローバリゼーションが一気に進んでいた時代です。また、インターネットが軍事利用から社会化されていく時代でもあります。冷戦が終結した一方で、民族問題やエイズなど、今の美術で取り上げられているさまざまな問題が顕在化しました。その時に、米軍基地跡地である立川で何をするか。従来のように大きなパブリックアートを置くのではなく、37カ国、92人、107点の作品を展開しました。僕は、アートとは、人間の権化、人の姿だと思っていますから、出身国、技法、コンセプト、色合い、できるだけ違うものを全部埋め込もうとしました。これは人間の代わりだと思ったわけです。混在、それこそがこの世の中だということを、この時代だからこそやりたい。これが第一のコンセプトで、次は「機能のアート化」をやりました。ヴィト・アコンチという作家の、車止めの機能を持つ車型のベンチなどです。また、アートだからと大切なものにせず、2作品を除いては作品名もありません。触る、座る、なんでも結構です(笑)。

ヴィト・アコンチ


ファーレ立川は、街全体が美術館というコンセプトで、世界でも初めてだと思いますが、商工会議所と地権者と市とボランタリーの4者が一緒になって進めました。現在は大企業や国の施設が進出する場合は、これまでの作品を見ながら、一つ違う作品を置いてもらうということをやっています。

人をつなぐアート、地域との関わり
越後妻有 大地の芸術祭

ここまで、「いろんな人の中にあるアートとは、どういうことか」についてお話しました。つまり、ギャラリーや美術館という守られた空間から街に出ることで、作家個人の表現でありながらも、アートには地域や作品の置かれた場所と人をつなげていく機能が生まれます。たとえば、越後妻有では、地域のお母さん方が必ずツアーをしてくれます。作品が、いろんな人たちをつなぐような働きを持ってきたわけです。

「大地の芸術祭」の里

大地の芸術祭の舞台は、新潟県の越後妻有という、きわめて過疎の地域です。2005年には、豪雪で道路が寸断され、冬の間はヘリコプターで物資を運んだほどで、人口3万人以上が住む集落としては、世界で最も雪の深い地です。日本各地で厳しい状況に置かれている農業地帯の中でも、特に厳しい場所の一つです。日本が効率化ということを重視した結果、何が起きたか。まず、農業はアメリカとのバーターでやめろ、ということが言われた。現在は少し盛り返していますが、自給率40%を下回ります。次に、効率化ですから、こんなとこまで道路なんか通したくない、こんな田舎に住まれては困る。この地域が特に大変なのは、かつては760平方キロという広い地に約200の集落があり、孤立した地域の中で必死に助け合って生きてきた。そこに車社会が到来し、除雪が行なわれ、生活形態も変わった。それが今になって、もう除雪しないと。効率の観点からいえば、2軒しかない道のために除雪するお金はない。ここはお年寄りの自殺率が極めて高かった地域です。 これまで、山の中で棚田をつくり川の瀬を田にして、大変な思いで農業を営んできた。そんな地域に対して、「効率が悪いから住むのをやめなさい」という。そこで生まれ育って先祖代々必死で生きてきた暮らしを、効率が悪いという理由で否定することができるでしょうか。

「瀬替」

で、美術の話です。アルタミラやラスコー以来、歴史上人類が残してきた美術を私達が大切にするのは、その時々の思いがあって作られてきたものだからです。美術が人々をどれだけ勇気づけてきたか。たとえば、スペインのベラスケスは、首相になりながらもあのような視点で厳しい労働者を描いた。すさまじいですね。日本でいえば、仏像です。有喜寺の薬師如来は、大和朝廷に懲服された高尾の民族が、相手側の権力によって作らされた作品です。

つまり、美術というのは、人間の葛藤、時代とのあがきを表出している。それが、その時代において、それなりに希望を与えてきた。越後妻有も、代々そこに住み農耕を営んできた人たちは、そこで米作って食べていけるのに、なんだかよく分からない効率化というもののために、住んではだめだと言われている。僕は、美術がもし人間の旧い友達であるなら、このように今の日本で切り捨てられている地で、本当にちゃんと頑張れなかったら美術なんて止めたほうがいいと、思います。でも、そういったことができるのが美術ではないか、もっと頑張れるのではないか。これが越後妻有の出発点です。

「棚田」

これは今も耕作されている峠の棚田です。歴史的には、450年前に伊勢、尾張あたりの一向宗の門徒が、追いやられた末に辿りついた豪雪地帯の山の上で、彼らは棚田を切り開いて生活してきました。労働効率は非常に悪い。ですが、明治時代に3千万人いた日本の人口のうちの6%強にあたる180万人を、この地域が棚田で農作をして支えてきました。そのような地に「住むな」とは何たることか。ここの人たちは今、自分達の次の世代はないだろうと思っています。10年後、20年後、自分達が死ねばお墓もそのまま。このあたりでは、誰のものか分からない田、不在地主が非常に多いです。上京して、自分の所在を連絡せず、誰も分からないという人達が圧倒的に多い。上京してもその多くがうまくいかないからです。
僕は、この棚田をやってきたおじいちゃん、おばあちゃんが、これからの数十年、何か喜ぶことをやりたいと、思いました。そして、何が「元気になる」ということかについて考えてみました。2000年の越後妻有で、ある家では、おじいちゃんとおばあちゃんが、その家の来訪者1万2千人、全員にお茶菓子を振舞っていらした。そのおじいちゃんが11月に亡くなりました。僕はもう、こんなに忙しくやっていただいて申し訳なかったと思いました。けれども、おじいちゃんは「今年の夏は楽しかったな。本当に嬉しかった。」と言って亡くなったそうです。それでいいんだ、と僕は思うしかない。そして、このようなことを何か妻有でやりたいと思いました。この地に住む人たちが、農業を通して地域を作ってきたこと。これをテーマにしたい。
都市に住む私たちの喜びは、「刺激」、「興奮」、「大量の消費」。これは私たち年寄りにとっても同じですが、でも、これは一瞬です。では、本当の喜びは何かといえば、「子どもは元気かな」とか、あるいは自分がやってきたこの大変な農業や、先祖代々頑張ってきたこの濃密な集落、この景観。これを「素晴らしい」と言われることのほうが、大量の消費や一瞬的な刺激、興奮よりもずっと嬉しいに違いない。それをやろう、と思いました。先ほどのラウル・マレックやキース・へリング、つまり、そこに住む人たちの固有の記憶、日常の営み、小さなエピソード。これが大切なのです。

アーティストの協働
大地の芸術祭は、たくさんのアーティストにご協力いただいています。150万程度の少ない予算で、世界的な建築家ドミニク・ペローに参加してもらい、能舞台もできました。この交渉は面白かった。当時、彼は世界最大のオペラハウスの設計をサンクトペテルブルグで手掛けていた。その彼に、今度は世界最小のステージをぜひ造ってくださいと持ちかけて、引き受けてもらった(笑)。
いかにしてアーティストの協力を取り付けるか。どんなに大御所のアーティストでも、必ず親や親類の誰かは、現代のグローバリゼーションの中でとんでもない目に遭っています。そもそも資本主義というのは、プロテスタンティズムの倫理、まじめに労働するから稼いでいいというモラルに支えられてきました。しかし、もはや労働は重視されず、いかに効率よく稼ぐかが追求されている。そんな時代で、一生懸命やっているのに捨てられている、国や社会が棄民しているという事実、それを訴えて、一緒に頑張りたい。これが、私達のやりたいことです。


ボルタンスキー

 

越後妻有は、760平方キロにおよぶ広さのため、松代を中心に2、3時間で見られる場もつくっています。
ここで草間弥生さんが、「花咲ける妻有」といって、ファッションショーやグッズ制作など、非常に協力してくださいました。

 


イリヤ・カバコフ

世界的な絵本作家であるイリヤ・カバコフさんは、2000年に田んぼをやめようとしていらした住民に、彼のこれまでの営みに対する尊敬を伝えようと、作品を作りました。狭い中で頑張ってきた棚田、後継者がいないこと、国がこれを捨てようとしている事実。この地に来て見なければ分からないことを伝えようとして出来た作品です。写真や絵では伝えられないものです。私達が今、地域の問題を伝えようとするとき、インスタレーションという手法は非常に重要な形式になるのではないかと思っています。このような作品を見るとやはり、今の現代美術のエースたちが見事にやってくれるな、と思います。こういったことを為せる作家を、この土壌から生まなければならない。私達は、この小さい極東の島国のなかで、水と洪水の地の中で生きてきました。だからこそ、人類史の中で大きなウィングを広げたわけです。つまり、日本人に限らず、それぞれの地で、人々は自分たちの土地に向き合い、その環境の中でどう生きるかという智恵が人類史を広げてきた。ですから、自分達に何ができるか、ということをもっと考えなければいけない。それなのに、欧米の美術マフィアの流行を学ぼう。もうそんな時代はやめたほうがいいと思います。時代認識が大きく変わるべき時代です。自分の住む地で、ネガティブな条件に向きあい、いろいろな可能性を考えながら生きる術を見つける時期に来ている。
美術は個人の表現ですが、何か違うものの考え方なりの何かを提示できるものだと思います。そして、集団なり共同体なりの刺激を受けなければ生まれ得ないものです。つまり、横浜なら横浜、黄金町なら黄金町あるいは越後妻有なら越後妻有という中でこそ、生まれるものがある。そういう次元で美術をやらないならば、全然くだらない。そういったものとして美術はあるだろうと思います。


日本大学芸術学部

これは、崩壊寸前の空き家です。修繕費も出せず、解体すら300万円くらいかかる。かつて壊れかかったものは山の中で燃やせばよかったのが、今は公害等の理由で禁じられている。ここでは2、3年で必ず屋根が落ちるため、じきにあばら家ばかりの地になってしまう。住民にとっては痛々しい光景です。そんな状況にあった空き家を、アーティストや建築家が関わって生まれ変わらせた。日本大学芸術学部の方々が2年間本当によくやってくださいました。

うぶすなの家

 

震災後、どうにもならずに街に出て行った方の家をアーティストが関わって再生した作品もあります。この家は今、地域にとって大きな存在になって、たくさんの方が関わってくださっています。

 

北山善夫《時間の形象化》
田島征三

2000年には、北山善夫さんが、廃校となる学校で、卒業式の送辞や答辞、写真、スナップ写真などの数々のものを全て再構成した作品を手掛けました。時間の形象化の試みです。当時の子ども達のざわめきや姿がよみがえるようでした。また、ボルタンスキーも廃校の作品を通じて、ここを離れるしかなかった人たちの何かを感じられるようなことをやろうとしました。

田島征三さんは、鉢という集落の真田小学校で、「絵本と木の実の美術館」をやりました。2005年3月に廃校になり、3人の子どもたちが他の小学校に移ります。ここには彼らの最後の寄せ書きと、彼らが作った年譜が残っています。この年譜は「1996年 大地の芸術祭」というところから始まっています。僕らがまだ、この小学校のことを知らなかったころ、すでにこの芸術祭が彼らにとっていかに大きな出来事になっていたかを知り、僕は言葉がなくなりました。
この作品は、3人の子ども達が、春になって自分達のつくった菜園を見に、学校に戻って来たところから始まります。ペトラペッペという記憶を食べるお化けやそれをやっつけるお化けの話がこの美術館で展開されます。使われているのは流木と木の実、そしてこの学校で学んだ子ども達が作ったいろいろなものも残されている。

この作品を見たとき、「これが大地の芸術祭でやりたかったことだ」と思いました。僕達は、いろんなことをやって支えているけれど、やはり最後はアーティストです。この廃校に今、卒業生たちが訪れます。そこからカップルが誕生して、もうすぐ子どもが生まれたりする。つまり、そういう力がアーティストたちにあって、それがいろんなことを開くと思います。

松澤有子
赤倉という集落の小学校の体育館には、おばあちゃんたちが集まります。朝起きるとここに来る。お昼ごはんを食べに帰ってまた集まる。そして、時々居眠りをしながら、待ち針を何十万本と繋げている。今では、みんながここに集まります。新潟は今、豪雪への対処としてせいがい造りという建物で、お年寄りを3階に上げてしまいました。昔は、お年寄りは1階の土間にいて、子ども達が見ていたわけです。お年寄りは労働力として役に立たないという国の意識があるんではないでしょうか。昔は、田舎はいろんなものを受け入れていたわけで、そんな地域にしたいと思っています。


貧困とアート
もう一つ申し上げたいことは、今年、越後妻有には2006年より約3万人多くいらっしゃいました。とてもありがたいことですが、パスポートは2006年よりも売れていない。パスポート無しで、(芸術祭の中心である)十日町、松代あたりを見ていらっしゃるがとても多い。僕がもう一つのプロジェクトを進めている瀬戸内にも、高速道路1000円効果で、大阪や近隣都市から多くの方が訪れるようになりました。ですが、そこで消費されるのは家族4人のうどん代400円程度です。文化施設の入場者は増えていない。
つまり、越後妻有で起きたことは、非常に多くの人が来ているものの、意識的にはみんな貧しくなっている。今、日本の貧困化率が先進国でトップになっている。日本の労働人口の平均給与の半分に達しない人が、15%を超えたそうです。これまで、日本での文化的なことは、国民総中流ということで成立していました。しかし、もはや総中流ではない。越後妻有や瀬戸内について、抜本的に考える必要があると感じています。貧困率が15%なら、意識的な影響はもっと非常に大きいと思います。今までの延長で、「越後妻有おもしろいぞ。里山頑張っているぞ。一つの希望だぞ。」と来てくださるのはありがたい、でもパスポートは買われていない。そういう時代になっています。

都市にとっての地域、アートのもつ力
これまで僕は、地方の街、人が半分以上いなくなったような地域には、様々な都市の専門家が必要だと思っていました。今もそれは変りませんが、決定的に間違っていたと感じたのは、この地域に住む人達にとって都市の人達が必要である以上に、都市の人達にとってこそ地域が大切だということが分かってきたことでした。今、越後妻有には多くの地元の人達が関わり、芸術祭を支えています。ですが、最初のエンジンを回したのは都市の人達です。山間地で農業をやっているお年寄りに対して、都市で何だかよく分からないことをやっている若者達や外国人、アーティストという、“いい加減でダメでわけの分からない人たち”。彼らが関わることによって地域のエンジンを回してきた。彼らにとって地域は非常に大切なものです。これが分かってきたのは、非常に決定的なことでした。
ここで、彼らと地域やそこに住む人々を繋げているのは、赤ちゃんのようなアートです。直接的な効率性を持たず、メンテナンス大変!分かりにくい!だけど、そんなアートが、地域と人をつなげ、人と人をつなぐ。 これが、人間が一律化し、あるいは効率化というものに向かっている今、アートが持っている最大の力かもしれない。つまり、分断され、画一化され、あらゆるものが軽量化されていく中で、フェーズの違うものを掛け合わせる力がアートにはあるのかもしれない。そういうことを最近思っています。

[今後のYCCセミナー開催予定]
Vol.2 庄内映画村株式会社  2009年12月20日(日)
講師:宇生雅明(庄内映画村(株)代表取締役)
「おくりびと」など話題の映画を世に送り続ける「東北で一番元気な会社」と、官民挙げて映画ロケを支援している山形県庄内地方の取り組み。
Vol.3 シブヤ大学 2010年1月24日(日)
講師:左京泰明(シブヤ大学学長)
地域に密着し、新しい学びのかたちを創造するシブヤ大学のビジョンとシステム、そして全国に広がる姉妹校とのネットワークを紹介。 詳しい申込み方法・お問合せはこちら
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