情報誌 毎月22日発行

11月号 / 2011

:インタビュー「指揮者 山田和樹 さん」

11.10.22


yamada250.jpg

指揮者
山田和樹 氏

KAZUKI YAMADA

プロフィール

1979年、神奈川県生まれ。東京藝術大学指揮科卒業。指揮法を松尾葉子・小林研一郎の両氏に師事。
2009年、第51回ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝、併せて聴衆賞も獲得。現在、NHK交響楽団副指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢ミュージック・パートナー、横浜シンフォニエッタ音楽監督、東京混声合唱団レジデンシャル・コンダクター。ベルリン在住。第21回出光音楽賞受賞。平成22年度横浜文化賞・奨励賞受賞。また、2012/13シーズンより、スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者に就任予定。



(イベント情報)

「生きる--若い命を支えるコンサート」

日時:12月23日(金・祝)
会場:横浜みなとみらいホール大ホール
出演:徳永二男(ヴァイオリン)、萩原麻未(ピアノ)、山田和樹(指揮)、アンサンブル of トウキョウ

◆チケット:
全席指定 5,000円
学生席 2,000円

◆お問い合わせ:
神奈川芸術協会
045-453-5080

chirashi.jpg

指揮者としてやってはいけないこと

秦野のご出身。高校の吹奏楽部時代のお話を聞かせてください。
自由な校風で知られる神奈川県立希望ヶ丘高校でした。制服も校則もなく、クラブ活動も全て生徒の裁量に任されていました。
高校二年生で吹奏楽部の学生指揮者を任され、つい躍起となって「独善」的な運営をしてしまいました。50 人いた部員たちがだんだんと部室を去り、ある日たった5人しか来なくなってしまったんです。これは自分が変わらなければならない、と気づかされ、必死の努力をしました。リーダーだからみんなを引っ張ろうと考えていたけれどもそれでは駄目だ、みんなに任せよう、と。
ちょうどその頃、指揮者を自分の道として目指そうかと考え始めていた時期だったこともあり、自分と約束をしました。もし部員達が全員戻って来て、翌春の演奏会がちゃんとできたら、そしたら指揮者を目指そう、そう決心したんです。
ピンチ脱出の解決策はどのように見つけたのですか?
まず、誰とでも笑顔で挨拶を交わせるようにしよう、とそんな基本的なことから始めました。といっても、部室に来ない人には挨拶することもできないので、「山田君は何を考えているのか」と題したシリーズ形式のプリントを部員たちに渡すことにしました。わら半紙にワープロで書いたものを全員分コピーして、休み時間に各クラスを回って手渡しに行きました。「こういうふうな部になったらいいな」とか「僕はこうやっていきたいと思う」「いっしょにがんばりましょう」といった内容を、週に1枚か2枚、全部で20号くらい発行しました。部活に来なくなってしまった人に、僕の考え方を知ってもらおうと思ったんです。それくらいしか手だてが思いつかなかったんですね。このプリントが功を奏したのか、少しずつみんなが戻って来てくれました。部活に来てくれた人には、ひとりひとりと「どうしたらいいと思う?」と話を持ちかけてみたりもしました。そして無事、みんな揃って笑顔で演奏会をすることができたんです。
指揮者としての出発点は高校時代の吹奏楽部なんですね。
あの高校にもし行っていなかったら僕は指揮者になっていなかったでしょうね。今の自分があるのは、このときの体験のおかげですね。指揮者として必要なことを学べましたし、やってはいけないことも一通りすませてしまったんです(笑)。
どんなNG事項ですか?
まだ身も心も子どもでしたから、自分の感情で行動してしまったことが多かったと思います。思春期特有の苛立ちや危うさのようなものを人に当たってしまったり。思うようにいかないからと、泣いてしまったり。まさに青春だとは思うのですが、喜怒哀楽すべてを表わしてしまって。
指揮者としては感情を出すことはNGなんですか?
感情表現はとても大切ですが、それに溺れてしまうのは駄目だと思います。たとえば交響曲などはとても緻密に作曲されていて、演奏するための設計が大事になってきます。推理小説を読み解くかのような、理論的で冷静な頭が必要とされてくるのです。でもだからといって理屈だけでも音楽は羽ばたきません。その場その場の音楽を息づかせることができるかどうか、論理的な準備をした上で、感情も解き放っていくというバランスが重要ですね。

すべての経験が生きています。

高校のときの決断で、指揮者になろうとしたのはどうしてですか?
小学校で鼓笛隊や声変わりするまで合唱をやっていたりして、ずっと音楽は大好きでしたが、絶対に職業にはしない、とも決めていました。中学校では、僅かにいじめられた時期もありましたが、そんな時支えてくれたのは音楽でした。でも大好きだからこそ、職業にすることには抵抗があったのです。
それが、高校二年生の時に、封印していたものがバンと大きく弾けたんです。いざ決意した時の意志は固かったですね。でも、高校二年の終わりでしたから、楽器の演奏家を目指すには遅すぎました。ピアノも普通には弾けましたが、プロの演奏家になろうとするまでの修練は積んでいませんでしたし。指揮者しかなかったんですよ(笑)。高校生で指揮者としての才能溢れる人なんていたら逆に怖いので、これからどれくらい伸びていくか、指揮者としての可能性があるかどうかという観点で音楽大学の指揮科も採用してくれるのです。
それで見事に芸大の指揮科に入学できてしまうのですから、準備がよく間に合いましたね。
ええ、実はいろいろな偶然に恵まれているんです。
幼稚園に入園するとき、父の転勤で名古屋に住むことになりました。いくつかの候補の中から選んだ幼稚園が木下音感教育法という音楽教育をカリキュラムにしているところだったんです。朝はまず歌うことから始まり、日々の生活の中にその音感教育法が実践されていました。そして卒園する時にはほとんどの児童に自然に音感が身に付いているんです。もともと、子どもが大きくなって音楽家の道を選ぼうとしたときに手遅れにはならないように、という想いから考案された教育法なので、まさに後の僕のケースにぴったりだったんです。この音感のおかげで高二で指揮者を目指しても何とか間に合ったわけなんです。
指揮者の素養を早くから身につけていたのでしょうか?
その音感教育法を採用している幼稚園は一年に一回、東京に集まって合同演奏会を行なうのですが、子どもたちの歌の伴奏をしてくれたのがプロのオーケストラでした。子どもには贅沢だという意見もあるようですが、そうではなく、子どもだからこそ本物を、という考え方によるもので、素晴らしいことだと思います。幼稚園児の頃からいい音を身体で知っていたのですから。
そして僕がいまだに思い出すのは、その演奏会での舞台裏の独特の匂いと緊張感です。あれは一生僕の身体の中に残っていると思います。新宿文化センターでした。早朝、名古屋から東京にやってきて、見たことのない指揮者みたいな人がいて、オーケストラがいて、リハーサルなしでいきなり本番。子どものときから本物のオーケストラの音を聞いていたこと、大舞台での緊張感を味わったこと、これが僕にとってすごく豊かで意味深い体験となりました。
すべてが指揮者になるための必然として用意されていたみたいですね?
 僕はただ歩いて来ただけだと思うんですが、振りかえるとそう見えてしまうかも知れません。自分でもミラクルだなぁと思います。どこかひとつ違っていても今の自分はなかったのですから。入る幼稚園がひとつ違っていたらこうなってなかったでしょうね。その後の高校の吹奏楽部での体験にしてもそうです。でも皆さんそれぞれの人生がそういうものなんだと思います。偶然が集まって必然になっていくというか。

先生の背中に学んできました。

指揮者としての修行時代はいかがでしたか?
ここでも出会いに恵まれました。
松尾葉子先生、小林研一郎先生から、音楽面だけでなく、人への配慮の大切さを学びました。師弟という関係ではありませんでしたが、岩城宏之先生にも晩年の三年間、可愛がっていただきました。
岩城先生は東京混声合唱団の音楽監督をされていたのですが、突然「俺は山田和樹なんて指揮者は知らない。東混で仕事をするんだったら俺の前で練習を付けてみろ」ということになり、腕組みする岩城先生の目前でテストを受けました。これは厳しいように見えて、実は僕という若手への配慮だったと思うんです。岩城先生のお墨付きが与えられることで、他のひとに文句を言われなくていいように、堂々とやれるように、という意図があったと思うんです。
指揮者になるのに「ハウツー本」はありません。指揮法の技術の本は読めても、指揮者という「リーダーシップ論」はありませんし、あったとしても役に立たないでしょう。全て先生方の背中に学んできました。
指揮者としての登竜門、ブザンソン・コンクール優勝で人生は変わりましたか?
コンクールの結果は、僕の力というよりも、これまで出会ったきた方々のおかげです。
二度目の挑戦、30歳という年齢での優勝で本当によかったと思います。優勝の直後から次々と海外のオーケストラ、それもBBC交響楽団、パリ管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団といった錚々たるオーケストラを指揮する機会に恵まれましたが、それらは、それまでの日本のオーケストラとの経験がなければ乗り越えられるものではなかったでしょう。今度は、海外のオーケストラと演奏した経験を、日本に持ち帰ることができたらと思っています。
一つ一つの演奏会から必ず一つは宝物をみつけることができます。それを手に入れるのが難しいときほど、困難に直面した時ほど、そこで得た宝物が将来に役立つものとなるように思います。
来年はスイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者に就任されますね。
最初の出会いは、2010年の6月、急な代役で引き受けた演奏会でした。
リハーサルの段階からとても相性がよいと感じました。コンサートでは指揮をしていて自分の体重がなくなるかのような感覚を味わい、素晴らしい体験をさせてもらえました。このオーケストラにはまるで音に色が付いて見えるかのような色彩感があるのです。そのコンサートの成功をきっかけに次期の首席客演指揮者として団員投票で選ばれました。言うならば「ひとめぼれ」状態で選んでもらったように思いますが、逆に言うとお互いにいいところしか知らないのではないか、という怖さもあります。それらも含めて、強い信頼関係を築いていければと思います。
横浜みなとみらいホールでの「生きる--若い命を支えるコンサート」はどんなコンサートになりそうですか?
横浜みなとみらいホールでのコンサートには特別な想いがあります。
秦野が地元の僕にとってずっと横浜は身近な「都会」でした。みなとみらい地区が徐々に変貌していく姿を見ていた僕にとっては、「近未来都市」でもあります。今度の「生きる--若い命を支えるコンサート」ではこの愛着の地、横浜で、音楽の力が「生きる」ことに果たせる役割を伝えられたら、と思っています。
2011年9月4日横浜みなとみらいホールにて



ケータイサイト

Copyright ©
Yokohama Arts Foundation.
All rights reserved.