情報誌 毎月22日発行

2月号 / 2010

:インタビュー「岡田利規さん」

10.01.15


岡田利規さん

演劇作家・小説家 岡田利規氏
Toshiki OKADA

プロフィール

演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。05年『三月の5日間』で第49回岸田戯曲賞を受賞。同年7月『クーラー』で「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」最終選考会にノミネート。06年12月新国立劇場 the LOFTシリーズにて『エンジョイ』発表。07年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を発表し、翌年第二回大江健三郎賞受賞。08年3月『フリータイム』を発表。近年では日本の公共劇場の委嘱作品として安部公房の『友達』やデーア・ローアーの『タトゥー』の演出や他劇団への戯曲提供を行う。09年10月ヨーロッパツアーにて、最新作『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を発表。

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イベント

2/14(日)~26(金)<会>STスポット
3/1(月)~10(水)<会>横浜美術館

「わたしたちは無傷な別人であるのか?」


<問>チェルフィッチュ
わたしたちは無傷な別人であるのか?

横浜で生まれ、横浜で劇作家・演出家としてデビュー。2005年には「三月の5日間」で、演劇界の芥川賞とも称される岸田國士戯曲賞を受賞。独特な身体表現と「超リアル日本語」といわれるセリフで構成される作品は、国内外で高い評価を得ています。今回、自身の主宰する演劇ユニット「チェルフィッチュ」を率いて、2年ぶりに新作「わたしたちは無傷な別人であるのか?」を発表。出演される山縣太一さんにもご同席いただき、念願だった横浜での初ロングラン公演を控え、新作への思いを伺いました。

ブラックボックスの、もわーんとした感覚を扱ってみたいなと思っています

新作『わたしたちは無傷な別人であるのか?』のテーマを教えてください。
テーマは例によって日常。ほんと、どうってことのない日常です。ただ、その日付を2009年8月29日の土曜日と30日の日曜日、総選挙のあった日とその前日の土曜日に設定しました。あの時、世間では選挙前から政権交代が確実と言われていて、それによってとにかく何かが変わるんだという雰囲気がありましたよね。でも「それがどうした?」「大騒ぎをするようなものなのか?」という気分も同時にあったと思うんです。この出来事と世の中の変化に、つながりがないはずはないですよね、だからこそ「選挙に行きましょう」と促されるわけだし。でも、地続きになっていることのプロセスが、あまりに複雑で、僕にはどういう具合に地続きになっているのか、そもそも本当に地続きになっているか、さっぱりわからないんですよ。そしてこれは僕だけじゃなくて、みんなが抱えている感覚だとも思うんです。だから、今回の新作では、漠然とした言い方になりますけど、そのブラックボックスの、もわーんとした感覚、状態を扱ってみたいなと思っています。
どういった人物が登場しますか?
人物は、夫婦がでてくる。後は、一人二人出てくる。ちょっとまだ、決まってないんですけど、夫婦が出てくるのは確実で、後は誰が出てくるのかな...。まあ、夫婦の友達なり、あるいはどっちかの兄弟なりっていう人が出てくるのかなあっていう。後はもうちょっと、関係性の希薄な、あまりよく知らない隣人っていうひとが出てくるのかなあっていう感じですね。
稽古はいつからスタートされるのですか?
稽古はもうやってます。今やっている部分は、それはそれで出来ているんですけれど、その先の展開はまだ書いていなくて。ただ、パフォーミング・アートっていうのは、お話だけではないので。なんていうんですかね、それをどうパフォーマンスにするか、それをどういう風な構成で見せていくか、っていうことをなんだかんだぐじゃぐじゃ考えながら、リハーサルをしながらお話を考える、ってことはしてはないんですけどね。ただ書いてないっていうだけです。

こんなに変わっちゃたの?ということになってもかまわないと思っています。

作品が出来上がる課程は、どのようなものなんでしょうか?
いつもバラバラで、あとは覚えてないっていうのもあるんですけどね。テキストは書きますよ。パフォーマンスのコンセプトはこういうことをやりたいとか、ざっくりしたコンセプトは決めるんですけど、でも、それはやってみないとわからなかったりして、ちょっと無理だなとか、頭でっかちだったなと思ったらそれはちょっとひっこめてとか。そういう試行錯誤はあるんです。でも、その試行錯誤の内容、何を試行錯誤するのかっていうことは毎回違うってこともあるし、違うってこととは別の言い方で、その僕たちがいろんな共通理解とか、いろんなことを蓄積していくので...。それが蓄積されることでの変化っていうのもありますし。その蓄積によって、僕の考えも、僕の蓄積の上での変化、その先の一歩みたいなことがあったりとかで、毎回プロセスが違うんですよね。
今回が初のロングラン公演とお聞きしました。それが今回のひとつの挑戦なのでしょうか?
長くやっていて、変性っていうのがいいのかな、もうちょっとかっこよく言うと発酵みたいなことになるんだと思うんですけど。発酵まではいってないのかな?変わるって事が起こるのを期待しているっていうのがありますね。普通、演技っていうもの、決まった形の演技を単になぞるっていうことを3週間もやるなんて、つまらないでしょう。作品って、育っていくものだから、決まったパッケージを最後までやっていくのではなくて、変化を受け入れる懐を持った状態で、上演できたらいいなと思っています。
最初に見た人と最後に見た人と、内容が変わっているというような?
どの程度変わるのか、こんなに変わっちゃたの?ということになってもかまわないと思っています。今日のパフォーマンスと明日のパフォーマンスは別物、実はいわば別の作品なんですよね。見ている人にも、そんなふうにパフォーマンスを見るということを促すところまでいけたらいいですね。すごく難しいでしょうけど、その可能性を持つ作品をつくって、それを上演する日々を送れたらいいですね。
芝居の稽古の際に、動きは1回1回、固定するものではないということなんでしょうか?
固定することに関して意識的ではないです。結果的に固定化されることはあるんですけど、それは、固定してほしいわけではなく。毎回毎回、常に新しいフォームを出していけっていうほど、インプロビゼーション(即興)が好きなわけでもないし、それを志向しているわけではないんです。
上演のフォームを固定しないということが、変化ということにつながっていくということでしょうか。
そうです。もちろんそうです。毎回見ていて、なんか楽しい、面白いものが見たいんですよね。面白いっていうのは、お話が面白い方がいいし、面白いものをつくろうと思いますけど、パフォーマンスは、パフォーマンスを見るものなので、そこが見ていて面白いものを作りたいですね。
岡田さんの作品のテーマは、ご自分の中でどのように醸成されて、これを出そうっていう風になっていくのでしょうか?
なんでしょうね...。テーマについては、いつも日常しか書かないですね。それは多分、世界的にもわりとそういう雰囲気じゃないですか。それに染まっているだけなんですよ。だから僕も日常からしか始められないって思っちゃっているし、そういった風潮の一貫でしかないっていう突き放した言い方もできるけど、でも、もっと自分の心の中で、日常がすごく大事だという気持ちも同時にあるわけなんで。
横浜のSTスポットは、ご自分が育った場所、というこだわりがあるかと思うんですけど、横浜美術館のレクチャーホールを公演会場に選んだ理由はなんでしょうか?
レクチャーホールであることのこだわりは特にないですけど。ビジュアルアートの文脈っていうのは、何て表現すればいいのかな...。居心地がいいんですよね。風通しがいいというか、コンベンショナル(型にはまる、月並み)じゃないというか...。
山縣さんにお聞きします。先ほど、役者さんに対してかなりの負荷がかかるという話をしていたんですけど、そういった方法に触れられて、山縣さんは最初どのように思われたんでしょうか?
<山縣さん>僕は、演劇の基本みたいなものは全然やってなかったんですよ。それが良かったんです。普通に面白いって思っちゃったんで。演劇を見たことはあったんです。で、何だか暗いな...。暗くてつまんないなって思ってたんです。僕が高校の頃とかって、演劇は、どこみてるかわかんないような人が大声出してたり、泣いたり、色恋があったり、何だか嘘っぽいみたいのがあったんですね。
<山縣さんへ>公演を重ねてこられて、演技的に積み重なるものがあると思うんですけど、今回の新作公演に関しては、チャレンジってあるんでしょうか?
<山縣さん>そうですね。以前、『フリータイム』を上演して、僕的にはなんですけど、ガチャガチャ動かずに、ひとつの動き、ひとつの言葉で引ひっぱったりもしていたんですけれど、やってみて、これはこれでいいけど、もっと軽くできる、ポップにできるなっていうのがあったんで、そこは個人的にチャレンジしてみたいですね。簡単でいいんですけど、あまり重くなり過ぎないっていうか。軽いほうがリアリティがあるんじゃないかっていうのがあるんで。重くてリアルっていうのは、ある程度やったんで。今度は初心に戻って、軽くやりながらグッとリアリティのある体とかをつくっていきたいなと思っています。
岡田さんへお聞きします。岡田さんは、芝居を作るプロセスで、積み重なっていくものがとても多いというお話でしたが、その重なりとは、違うことが重なってるという意味でしょうか?
なんですかね、色んなものの重なりがいくつもあるんで、よくわかんないですよね。例えば、僕がこういうことをやりたいと、頭で考えているコンセプトみたいのがありますよね。でも、今日初めて会った役者さんが、そのコンセプトを聞いたら「は?」って感じだと思うんです。でも、蓄積があれば「は?」ではない。そんな感じはありますよね。でも、最初からできるわけではないし、そうやってできていくようになったりとか、あるいは、出来ていく、出来ていかないっていう、与えるって関係だけではなく、リハーサルっていうプロセスを経て僕の中でもいろいろ変わったり、また新しいアイデアが生まれたりするんです。むしろ、リハーサルで出たアイデアの方が、現実的でより面白いんじゃないかっていう方向転換が起こることもある。あとは、役者たちが、僕が言っているところとはまた別のところで、副作用的にいろんなことを得たりするって事が一方で起きてる。そのことは、現場ですごくいいものとなってあらわれるんです。色んなものが生まれてきて、前に進んで、何かそんな感じだと思います。何か目的に向かって最短距離でいくみたいなリハーサルは最近してないんで。割とだらだらやるんだけど、僕はそれが一番いろんなものを生んでいいかな、と。

台詞っていうよりも、指示ですよね。

小説、文章を書くのを本格的にやっていきたいと書かれていたんですけど、活動のフィールドっていうのは、今後どのように変化されていくのでしょうか?
チェルフィッチュで芝居をつくる、小説を書く、基本はこれだけです。今年、変化があったとすれば、チェルフィッチュ以外で芝居はつくらないと決めたこと。だからその分、シンプルになりましたよね。でも、まだ小説が書けていないっていう現実があるんですけど。
岡田さんにとって、文章を書くっていうことと、チェルフィッチュやっていくってことは、それがどういう風につながっているんでしょうか?
わかんないですね~。僕の中で二つがどうつながっているのかっていう考え方って、よくわからないんです。それよりも、世の中には芝居ってものがあって、小説ってものがあって、それぞれが既にあったもので、それぞれが色んなものを持っていますよね。歴史とか今の状況とかがあって。それに無関係ではいられないじゃないですか。それに安易に追従するとかいうことは無論ないにしても、やっぱりそれとある程度関わりながら、芝居をやるってこと、小説を書くってことは、そういうことじゃないですか。で、僕は二つの形式に対して、それぞれの関わり方っていうのがあって、色んな批判的なことを感じたり、こういうのがいいなと思ったりっていうのが、それぞれに対してあるっていうことの、それぞれとの関係のとり方があるなっていうのは、すごくしっくりくるんです。だけど、自分にとって、演劇と小説がどういう関係付けがされているのかっていうのはよくわからない。最近、これが答えとして一番正確だなっていう気がしていて。
例えば、芝居としてアウトプットしたことが戻ってきて、小説の文章になることはあるんでしょうか?
あると思いますけど、例えば、僕は二つやっているけれども、芝居は小説ではできないことをやろうとして、小説に対しては今と逆のことを思っていた部分があったんですけど、最近はあんまり、そういうことを考えないようにしていて。そういうことを考えると、それぞれの展開の仕方、自分の中の芝居なり、小説なりの自分の中の展開の仕方を柔軟にしなくなっちゃうような感じになっちゃいそうで。例えば、自分がこういう芝居をやりたいと思ったその中で、自分の小説のテキストで芝居をやりたい、そのテキストをしゃべらせたいと思ったときに、それがいいことかどうかはわからない。小説には小説ならではのものがあるんだし...と、それ自体をシャットアウトしちゃうと、つまんないですよね。だからなんか、何でもいいじゃないか、と。テキストの体裁も、今回は大分変わると思うんですよね。変わらない面もあるとは思うんですけど。何ていうのかな、だらだらした口語みたいのではないものが、かなり含まれているものにはなると思います。
そうするとかなり印象が違うものになると思うんですよね。
なりますよね。もう、ほんと、台詞でもない感じ。台詞も書こうと思っているんですけどね。台詞でもないって言われてもよくわかんないですよね(笑)。台詞っていうよりも、指示ですよね。つまり、俳優が舞台上で観客に対して何かをしゃべれば、観客は、その言葉の影響を受けないわけにはいかないじゃないですか。例えば、『私は○○です』っていうふうに言えば、ああそうなんだ...って思うっていう。言葉には、そういう指示、そういう力があるじゃないですか。わりとそういう感じに言葉を使っているというか、私の気持ちがどうってことではなくて、言葉を与えることによって、見え方が変わっていくっていう感じです。

今、一番欲しいのは、ホームですね。

今後、やってみたいことはありますか?
一番やりたいのは、横浜でロングラン公演をやることですよ。お客さんにいっぱい見てもらって、上演の成果がきちんと上げられて、やってて自分たちが楽しければ、一番楽ですからね、楽っていうのは、悪い意味じゃなくて、一番幸せなことですよね。よそに行くのもとても楽しいことなんですよ。でも、何か、ホームがあるっていうのはとてもいいってことで。今、一番欲しいのは何かっていうと、ホームですね。気持ちとしては持ちたいんだけど。
横浜でホームとなる場所が欲しいということですか?
そういう状況がつくれたら、それが一番幸せでしょうね。ホームがあって、ホームでやって、じゃあ出張に行って来ます!っていう生活ができれば、劇団として最高に幸せなことだと思いますよ。あっちこっちに行きたいという気持ちがないことはないですけど、1年間に回っている数でいうと、もう十分です。
以前のインタビュー(2007年12月号)で舞台芸術の作家は、稽古場やアトリエに恵まれていないとおっしゃっていましたが、やっぱりその状況は変わらないですか?
厳しいと思います。全然数が足りません。全然足りないですよね。例えば、ここを使うのだって、それなりの競争があるわけで。基本的には、スタジオをとるのに競争があるっていうのが違うと思っているので。
お二人にお聞きしたいのですが、演出家、俳優をやっていて良かったなと思う瞬間ってどういうときでしょうか?
<山縣さん>わりと普段は、恋も仕事も中途半端なんですけど、チェルフィッチュやってるときは、稽古も本番も無心になったり、夢中になったりしてるんで、割とそういう瞬間が好きなんです。最近はかっこつけて、クリエイティブな瞬間だとか言っているんですけど、でも、夢中になっている瞬間の自分が一番好きだと思うんですよね。普段ないんですよ、なかなか自分をそこまで酷使したり、鞭打ったりする瞬間が。甘いんで、自分に。だからそういうときとか、わりとよかったなぁって。どこにいっても得られない瞬間だと思うんですよ、ダンスやったり演劇やったりって。何か違うなって思ったりとか、もうちょっといけるなって思ったりとかあったんで。そういう感じ、瞬間ですね。
<岡田さん>俺はね、(山縣)太一をはじめ、自分たちがこれまでやってきた蓄積があって、その上でその先をやる、現実に手に掴めるものとして、その先ってものがあって、そこに向かっていくってことが出来ているってことかな...って思うことは、たまにあるんですよね。そのときはとても楽しいです。楽しいと言うか、幸せですよね。この集団がちゃんとやることをやってきたなって思える。それは良かったと思いますね。

(2009年11月 急な坂スタジオにて)


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