
1月号 / 2010
:インタビュー「立川志らくさん」
09.12.17

落語家 立川志らく氏
Shiraku TATEKAWA
プロフィール
1963年東京生まれ。85年立川談志に入門、95年真打昇進。現在弟子10人をかかえる。
落語家、映画監督、映画評論家、エッセイスト、さらには昭和歌謡曲博士の異名を持つ。
また自ら脚本(脚色)、演出、出演の、劇団下町ダニーローズを主宰、向田邦子原作「あ・うん」、大林宣彦監督作品「あした」を舞台化するなど、これまでに11本を上演。
キネマ旬報、東京スポーツなど連載多数。著書に「全身落語家読本」(新潮社)、「志らくの落語二四八席辞事典」(講談社)、「雨ン中の、らくだ」(太田出版)、最新刊「シネマ落語」(河出書房新社)ほか多数。
立川志らくさんの公式HPはこちら
イベント
2010年1/8(金)19時開演 第三十四回「志らく百席」
<会>横浜にぎわい座
2010年3/3(水) 19時開演 「志らく百席 リバイバル(仮題)」
<会>横浜にぎわい座
<問>
横浜にぎわい座
若手実力派落語家の中でも常にトップを走り続けている、立川志らく師匠。日本大学芸術学部時代、落語研究会のOBであった放送作家の高田文夫氏にその才能を見出され、立川談志師匠の弟子に。真打になる前から数々のテレビ番組等に出演、今では独演会のチケットは常にソールドアウト、しかも落語だけでなく、映画監督・演劇などの分野でも活躍中です。2004年7月からスタートした横浜にぎわい座の『志らく百席』が2010年1月に百席目の公演を迎えるにあたりお話を伺いました。
「この人の弟子になろう」
-
落語との出会いというのはどんなものだったのでしょうか。
-
落語との出会いは、小学校の時です。テレビのNHKでやっていた「なつかしの名人会」で、昭和38年に亡くなった、三代目三遊亭金馬師匠の「薮入り」をたまたま見て、子供ながらに面白いなって思ったんです。カルチャーショックでしたね。それが最初です。
それから、家の中にある父親の本棚にあった落語全集を読んで、父親のレコードの中にあった、落語全集の全名人、当時、生きている人はほとんどいなかったんですけど、それを毎日のように聞いて...。それも全部面白いと思って。それが小学校の高学年から、中学校にかけてですね。足しげく寄席に通うようになるのが高校、大学なんです。中学生の頃は、色んなところに行けませんから。
-
落語研究会には入られたんですか?
-
それは、大学に入ってからですね。
-
でも、映画にも興味を持たれていたんですよね?
-
落語と映画は同じくらいですね。映画も最初は色々なものを見てはいましたけど、名画座でチャップリンの映画3本立てを300円で見てました。ビデオがまだ普及していない時代ですからね。ものすごく面白かったんですよね。そこから映画も見に行くようになったんです。
-
映画に興味があったのに、大学で落研に入って、そこで落語家になろう!となったのは、どういった経緯があったからなんですか?
-
ずっと映画の世界に行きたいと思っていて、それで日大の芸術学部に入ったんですよね。落語家になろうなんて気持ちは、まったくなかったんです。
これは、色んなところで言っているんですけど、当時、先代の金原亭馬生師匠、10代目金原亭馬生師匠が好きで高座を追っかけていたんです。あるとき、渋谷の東横名人会っていう落語会で、たまたま一番前の真ん中あたりのチケットがとれたんですね。それで馬生師匠が高座へ上がったら、板付きって言って、幕があがったらもう座ってる。当時は体の調子が悪そうだな...ぐらいで、なんだかわからなかったんですが、あとになってわかったんですが、馬生師匠は食道がんで、それが亡くなる十日前の高座だったんですね。だから歩いてくることもできない状態で、弟子に抱えられて座ってっていう...。周りはみんな、食道がんの末期っていうことで、もう手遅れだからってことはわかっていたんでしょうけれども。
それで『船徳』っていう落語をしゃべって。声も小さいし聞こえないし、途中で痰がからんで話が止まっちゃうし。噺を中断して、痰をちり紙に出してそれお客さんに詫びてたり...。その高座を見たときに、なんか知らないけど「この人の弟子になろう」って、瞬間的に思ったんです。ひどい高座なんだけど、なんか気迫みたいなものが伝わってきて。それが大学1年の夏ですね。で、まだ落研にも入ってない頃です。それで、十日後にテレビの速報で亡くなったってことを聞いて、せっかく弟子になろうと思ったのにこれはえらいことになったと。で、師匠のお弔いに何の関係もないけど行って、「弟子になりたかった」って気持ちだけ伝えて。
で、記憶が定かでないんですが、その前後に池袋演芸場にふらっと入って。そしたら立川談志師匠がトリをとっていたんですよ。でも、落語をやらないんです。ずっと馬生師匠の思い出話を語っていたんです。そしたらお客さんの一人が「談志、落語やれ!」って野次って。そしたら談志師匠が「馬生師匠が死んで、今日は落語をやる気分じゃないんだ」って。それを見たときに「かっこいいな。この人」って思って。それから、談志師匠の「現代落語論」っていう本を読んで。それから談志師匠の落語を追っかけるようになったんです。それから「談志師匠の弟子になりたい」と。
-
馬生師匠と談志師匠の落語は、かなり違いがあるのではないでしょうか?
-
馬生師匠と談志師匠では、柔らかいのと固いというのという感じで、まったく違うんだけれど、両師匠とも落語に対する熱い思いがものすごいんです。
-
弟子入りされたときは、どのような状況でしたか?
-
馬生師匠が亡くなった後、夏休みが終わって落研に入ったんです。
大学4年の夏休みに、高田文夫先生がたけしさんと一緒に談志師匠の弟子になった直後に、高田先生が落研のOBとして大学に来ることになったんです。そこで、30代の高田先生から「俺の前で落語やって俺を笑わせてみろ」と言われたんです。そして、しゃべり終えた私に高田先生が「お前だけだ、面白いのは。お前、落語家になった方がいいな」って。「いや、実はそのつもりで」と、お酒を飲みながら話したら「そうか、じゃあどこに弟子入りしたいんだ?」「いや、先生と一緒のところで」「え、談志師匠のところか。じゃあ、俺が連れて行ってやるから、夏休み終わったら俺んとこに来い」って。
俺んとこ来いって言われても、まだ卒業してないし、どうしようかと思ったんですが、でも、ここで卒業するまで待ってくださいというと、その程度の気持ちか!って思われてしまうって、直感的に感じたんです。とりあえず、行くだけ行こうと思って。で、高田先生に連れていかれて「こいつ、ちょっと弟子にしてやってください」って言ったら、「おめえが連れてくるんだ、才能あるんだろう、いいよ」で、二つ返事で弟子入りしちゃったんですよね。師匠に「まだ大学に行ってるんです」というと、「なんだ、まだ通っているのか、じゃあ大学だけは卒業しろよな」って言われたんですけど、弟子になるってことは、毎日師匠のところに行くわけですから、大学に行く時間がないわけですよね。親が借金までして日大芸術学部に入れてくれた...っていうのがあったんですが、でも、まぁいいやって、自分で退学届け出しちゃった(笑)。親に言うと面倒くさくなる、反対されるからと思って事後承諾(笑)。退学届けをだした後、親に「出しちゃった」と。で、談志師匠のところに入門したんですね。
「ダイハードをやる!」って大ボラを吹いたんです ~シネマ落語~
-
志らく師匠といえば「シネマ落語」をイメージされる方も多いと思うのですが、一番初めの作品はどの映画を素材ににされたんですか?
-
『スケアクロウ』っていう、アル・パチーノとジーン・ハックマンの70年代のアメリカン・ニューシネマです。
-
シネマ落語をつくられるときは、素材として、落語になりやすい映画を選ばれるのですか?
-
最初のころは、シネマ落語になりやすいものを探したり、自分が好きなものを出したりしていたんですが、あんまり評判が良くないんですよね。つくりやすいものでやると、知名度が低い映画になることもあるわけですよ。すると、よっぽどマニアな映画ファンは別として、それが落語になったからといったって「何がどしたい??」っていうようなもんで...。それであるとき「ダイハードをやる!」って大ボラを吹いたんです。どういうふうにやるのかを決めずに...。そしたら客は「ダイハードが落語になるわけがないだろう!?」ってチケットが飛ぶように売れて。
こっちは焦りましたね。映画を何べんも見ました。「こんなの落語にならない~」って思いましたね。無理やり落語にしたって、あの映画の迫力を表現できない...お尻に火がついて、困ったんですよね。チケットはもう完売してるし。
苦肉の策で、「妾馬(めかうま)」っていう噺で、八五郎が自分の妹が殿様の妾になって、お世継ぎを生んで、すごいえらいお姫さまになるわけですよ。八五郎は、すごい乱暴狼藉を働くわけだけれども、殿様に気に入られて侍になるっていう落語があるんですよ。その『妾馬』は八五郎がお城に行って、侍になるところでおしまいなんですけど、そこに盗賊が入ってきて、妹を守るために兄貴が活躍するっていう続編にしたらいいかなって思いついたんです。外との通信を、黒人のおまわりさんとトランシーバーみたいのでやりあうじゃないですか。でもこの噺は江戸時代。トランシーバーはないし、どうしよう、ってなったときに、今度は『たぬきの恩返し』っていう噺で、たぬきがハッつぁんに命を救ってもらって恩返ししますよ...と、お札に化けたり、サイコロに化けたりする噺があるんですが、これをダイハードの前にやっとくと、たぬきがまた恩返しに来て、外との通信の役目を果たしますって。こうすれば「なんだい?たぬき、どうしたんだよ」っていうと「あなたがピンチだったんで恩返しに来ました」「そうかいじゃあ、外の岡っ引きとちょっとこうこうこうしてくれ」と。そうすると、『妾馬』一席やって、『たぬき』一席やって、その続編で『ダイハード』をやって。『妾馬』続編だ、なんだ『たぬき』も出てくるぞ!とお客さんがものすごく盛り上がったんですよ。
で、この形式が面白いということになって、シネマ落語の前に必ず2、3席やって、その続編にしてみたり。途中からのシネマ落語は全部そういう形式です。何かの続編で70席ぐらい。シネマ落語にする映画は、ある程度話題性があるものにしていったんです。それで『ET』もやりました。ダイハードができりゃ、なんでもできらぁと思って(笑)。タイタニックもやったし、エクソシストもオーメンも、タワーリング・インフェルノ、タクシードライバー、ゴッドファーザー1・2・3を、幕末から明治維新にかけての壮大な吉原の物語にしたり。
苦肉の策だったんです。手っ取り早く客を呼ばなきゃいけない、でも、シネマ落語はあんまり評判良くない、だけど何とかしなきゃってことで「ダイハード」。それが結果的に良かったんですね。
-
師匠は映画監督や演劇の演出もやられていますが、その経験っていうのが、落語のほうにフィードバックされるようなことがあるんでしょうか?
-
そうですね、ちょうど私の落語が変わったのがこの2、3年ぐらいなんです。
演劇をやっているときっていうのは、落語の方がボロボロになってたんです。それは、体力的にすごくくたびれるからなんですよね。演劇の演出をするようになって、徹底的に役柄や芝居について考えるんですが、落語をやるときにもその脳が働くんですね。これまでの、新しいギャグをバンバンぶちこんで、ダーッとスピードで片付けていくというスタイルが、ギャグだけじゃなくて、この噺はこうなんだ、っていうのを自分でちゃんと探ろうとするんですね。
ハッつぁん、熊さん、与太郎には「おい、ギャグだけでいいのか?もっとこうしないと面白くなんないよ!」と、自分の中で登場人物と演出家が会話をするようになったんです。そういうこともあって、一席にかける時間が長くなったというのは事実ですね。
「志らく百席」スタートのきっかけ
-
「志らく百席」をスタートされたきっかけを教えてください。
-
そもそも「志らく百席」は、横浜にぎわい座がオープンして、何か会をやりましょう!ってことになったときに「志らく一門会」ということでスタートしたんです。ご存知の通り、私は弟子がたくさんいますので、一門会では弟子を出して、最後に私が一席という流れで。
まだ、今のいわゆる落語ブームが来る前だったんで、お客さんの中には、当然「弟子の落語なんざ聞きたくもない」という声もあって話題にもならず、全然客が入らなかったんです。弟子がはじけすぎると、私の持ち時間も短くなってしまって「わざわざ行っても、志らくさんの噺を聞けるのは、2時間のうちせいぜい15分か20分だ」っていうことになって。で、一門会をやめて独演会にして、さらにゲストを呼んだんですね。私の知り合いの色々な芸能人の方に出ていただいて、対談をやったり歌をうたってもらったり。でも、東京でも会をやっているわけなんで、お客さんがそんなにいっぱい来るもんじゃないんですね。それなら、私がゲストも呼ばずに独演会をやります!となったわけなんです。でも、ただの独演会では、横浜でやるか、東京でやるかの違いだけ。その頃『円生百席』といって、円生師匠がスタジオライブで撮ったのがあったので、それをもじって『志らく百席』と名付けたんです。そんなふうに東京と横浜の差別化を図ったんですね。
スタートした当初は「こんなネタをやります」と、百席のネタを全部チラシにも書いたんですが、実は、微妙に変わってきているんです(笑)。初めに出した百席の他に、その後自分が新たに覚えて「これはやりたい」と思ったネタがあったり、前々から持ちネタだったけど百席に入れてなくて、途中から自分の中で面白くなってきたネタを入れたりと、少しずつ入れ替えたんです。
-
「志らく百席」をスタートした5年前と今とを比べて、何か客席の変化はありますか?
-
最近、百席の終わりが近づくにつれて、お客さんの方から「百席をもう一度やってください」という声をいただいています。それは、途中から聞きに来られたお客さんの、百席全部を聞きたいというご要望なんですね。百席をスタートしてからお客さんも増えて、そのうちに2階も含めてソールドアウトする状態が普通になったんで、やり続けてよかったなと思いますね。
-
ご自分の中での変化はありますか?
-
一席にかける時間が長くなったというのが明確にありますね。それは、間延びしたのではなく、じっくり腰を据えてやっているから長くなったのだと自分では思っているんですけれども。その証拠に、志らく百席の基本は毎回三席ずつなんですが、当初は三席だと時間が余ってしまうんで、中入り後にトークのコーナーを設けていたんです。地方局の番組なんですけど、FMで『名言365』っていう番組を月~金の帯で15年ぐらいやっていたんです。色んな人の名言、シェイクスピアだとか、あるいは現代の野村監督の言葉だとか、色んなものを取り上げて、3分間でしゃべるという番組。それをライブ版で1カ月分色んな人の名言を、トークを入れて紹介するっていうのを30分くらい入れていたんです。それでだいたい9時前後ぐらいに終わる感じで。そころが、途中から同じ三席で終わりが9時半近くなってしまって。トークは全然入れてないんですね。じゃあ、前はどんな風にやってたんだろうという(笑)。それだけ落語が長くなっているんです。それがこの2年ぐらいですかね、去年・今年ぐらい。
-
百席に関しては「シネマ落語」を入れずに、古典落語だけを選ばれていますね。それには何か理由が?
-
当初、シネマ落語も入れて下さいって言われていたんですよ。自分の中でもシネマ落語もやるつもりでいたんですけど、そのうち、誰も「シネマ落語を!」とは言わなくなっちゃって(笑)。
対マスコミとか世間には、他にやっている人がいないし、古典落語より「シネマ落語」のほうが話題になりやすってことで、「シネマ落語」のイメージがあるんだと思うんですけど、私の高座を聞きにくるお客さんで「シネマ落語」を聞きにくる方はほとんどいないんです。一時期は、二つに分けてシネマ落語の会と分けてやっていたこともあったので、シネマ落語の会に来るというお客さんもいらっしゃったんですけれど、シネマ落語の会は年に1回、紀伊国屋寄席でやるくらいのものなんです。そこに来られるのは「そういうのもやるんだ、じゃあ一回見てみるか」というお客さんが大半ですね。
だから、席亭の方も「シネマ落語を入れてください、その方が話題になるから」って言ってたんですけれど、いつしか言わなくなりました。それで、「シネマ落語」って打ち出さなくてもチケットが売れるようになったんで、もう、古典だけで百席やっちゃおうってことになったんです。
-
百席を終わられて、今、新たな挑戦みたいなものは考えていらっしゃるんでしょうか?
-
百席が終わったあとは「独演会でいいよ」と言われているんですが、自分の中で、果たして独演会でいいのか?っていうのがあって、まだ結論が出ていないんです。
新たに百席ってなると、自分の持ちネタがだいたい古典落語で200席ぐらいなんで、そのうち得意なやつを百席やっちゃって、あと不得意なやつを(笑)。それを面白くするっていう楽しさがないことはないですけど、また新たに来られるようなお客さんがいるとすると、得意なネタを、もっと良くするっていうのも入れておかないと、しんどいことになるんじゃないかと。で、もう一度百席をやるのか、もう一度百席を新たに選びなおすのか、迷うところですね。
-
百席の最初の方を聞かれていない方もいるわけですからね。
-
まったく同じパターンで百席やるっていう面白さもあるし。そうすると、全部同じプログラムを組むわけですよね。第三十何回がとてもよかったと思っている人もいるわけじゃないですか。それをもう一回見てみよう!っていうのがあったり。第四十何回、ありゃひどかった、と。でももう何年か経つわけだから、今度はひどくないだろう、と言う風に見にきてくれるお客さんもいるだろうと。
同じプログラムでずっと行けば、ほぼ百席を聞いてるお客さんが『この席は行った方がいいよ』『これはあの時よりよかったかな』って、友達に教えてあげるってパターンもありますよね。そうすると、また自分との戦いにもなるし。『別に変わってないじゃないかよ』っていう。『なんだ、進化した進化したっていうけど、聞いてるこっちにしてみれば4年前と同じだぞ』というそういう声があれば、こっちもいいプレッシャーになるかとも思うんです。過去に、そういうやり方をした人はいないと思うんで...。
お客さんの雰囲気が自分の噺をうまくのせてくれるんです
-
横浜にぎわい座でのエピソードなどありますでしょうか?
-
横浜にぎわい座は、非常にやりやすい空間です。何がやりやすいかっていうと、マニアックなお客さんと、そうでないお客さんが混在していているんですね。それが一番やりやすいんです。
マニアックなお客さんだけだと、そんじょそこらのことでは笑わない、でも、まったくの素人だけだと私を知らない状態でやるから、こちらが起こしてやらないといけなくなる。それが、半分半分だから非常にやりやすいんですよ。
ただ、やりやすいだけに、落とし穴も多いんです。『天災』っていう落語をいろんなところでやってたんですね。で、「いつでもできらぁ」って思っていて、横浜にぎわい座の百席のネタで『天災』をやったんですね。そこに油断があった。こんなものは、ほうぼうでやってるし稽古しなくったって、ましてや横浜にぎわい座は一番やりやすいところだしって。そしたら、心の油断が見事に悪いほうにはまって、今までで最悪の『天災』になりましたね。それが百席の中のひとつだったんです。途中から「こんなんじゃない、もっとウケるはず、ウケるはず」ってあせるから、どんどん悪い方向になって、仕込みは忘れるわ、ロレロレになるわで。ひどい『天災』をやっちゃったな~っていう。だから心の油断っていうのは、恐ろしい。まさか!?っていうのを百席で味わいましたね。
あとは、『片棒』っていう落語。ケチなお父さんが三兄弟に財産をゆずるっていう噺で、三兄弟がものすごく派手なお葬式をやるっていって、ケチなお父さんが怒るっていう噺。本来、3兄弟は、派手にやる男・祭りにしちゃう男・末の弟だけ質素にやっておとっつぁんに気に入られる男っていう話を、長男は映画マニア・次男はナツメロマニア・三男を落語マニアっていう設定にしたんです。長男が考えるお葬式は、サウンドオブミュージックと雨に唄えばを流したり、霊柩車が走り去るとそこに「卒業」の最後の部分が重なるように、ダスティン・ホフマンが来てみたいな。次男は、霊柩車に乗って歌謡ショーをやりながら、「あこがれのハワイ航路」を歌ってみたりとか、藤山一郎が、美空ひばりが...っていう風にやってたんです。それを自分の会、マニアックな客が来る会でやったら、ウケたんです。他でやると、マニアック過ぎててんでダメなのに。それを自分の中で、いろんな人が聞いて楽しめるように作っていけたのが、横浜にぎわい座でしたね。マニアックにもいかず、かといってマニアックなお客さんが「それじゃだめだ」って言わない程度に、お客さんの雰囲気が自分の噺をうまくのせてくれるんです。
-
落語というのは、お客さんと一緒につくっていくものなのでしょうか?
-
お客さんの雰囲気が乗せてくれたりとかっていうのは、ものすごくありますね。
-
今後の目標、挑戦されてみたいことはありますか?
-
まず、「演劇らくご」を「シネマ落語」と同じくらいに広めるということがひとつ。それから、ちゃんとした映画を一本つくりたいなとは思っていますね。それは今、芸能人の人とか、いろんな人が映画をつくっている時代でもあるんで...。演出の勉強は演劇を11本やって、自分なりに戦うこともできたんで、今映画をつくればある程度の予算があって、それなりにいいものつくれるなっていう。で、それぞれがまた落語の肥やしにみんななるだろうな、と。だから映画を作りたいなと思っていますね。
-
師匠にとって「落語」は、どのような存在なんでしょうか?
-
どのような存在かっていうのは、ちょっとよくわからないんですけど、演劇をやったり、映画をやったり、色んなことをやっていても、結果的には落語のためになっているのではないですかね。でも、「ただ落語をやりたい...馬生師匠のように...」という初心の自分は今も変わってないと思うんです。
(2009年10月 東京都大田区 大田区民プラザにて)