情報誌 毎月22日発行

11月号 / 2009

:表紙の人 横田将士さん

09.10.19


横田将士さん

アーティスト 横田将士さん
Masashi YOKOTA

プロフィール

横田将士(よこた まさし):1983年埼玉県生まれ。東京造形大学卒業。第14回学生CGコンテスト最優秀賞、第12回文化庁メディア芸術祭アート部門審査委員会推薦作品、第31回東京ビデオフェスティバル優秀作品賞、アミューズアートジャム2007in京都森本千絵賞等を受賞。森本千絵氏との映像ユニット「goen°映像部」や子ども向け番組への参加など、映像作家として活動している。
横田将士さんのブログ

横田将士さん作品「記憶全景」上映情報

ヨコハマ国際映像祭2009 セレクションプログラム
「現代日本のアニメーション集」山村浩二セレクション
日時:2009/11/7(土)15時、11/23(月・祝)15時
場所:東京藝術大学大学院映像研究科馬車道校舎
詳細→ヨコハマ国際映像祭2009

山村浩二の「私が推薦しました!」

「記憶」には、アニメーションとの類似性を感じる。記憶の中の時間は、アニメーションのように再構成が行われているようだ。目に見えない「記憶」を現実空間に再現しようとする横田作品は、その圧倒的な手作業の積み重ねによる手法によって、時間の量を具現化する。そこには「駒撮り」の力を感じることが出来ると同時に、彼が再現したかった記憶への優しい眼差しによって、爽やかな清涼感がもたらされている。
山村浩二さんWEBサイト:「YamamuraAnimation」

いくえみの残像

《いくえみの残像》2007年、4分42秒、アニメーション


記憶全景

《記憶全景》2008年、5分27秒、アニメーション


Chiyokoreito LOOK !!!!!!!!!!!!

《Chiyokoreito LOOK !!!!!!!!!!!!》2009年、30秒、アニメーション


※ 「ヨコハマ・アートナビ」では、東京藝術大学大学院映像研究科の協力により、若手アニメーション作家をご紹介しています。毎月、登場する作家は、『頭山』や『カフカ田舎医者』で世界最高峰のアニメーション映画祭のグランプリを多数受賞した、山村浩二さんによるセレクション。2009年5月より、作家のインタビューとともに動画を配信しています。(~2010年4月)

ビデオ映像の静止画を、連続する1枚1枚の写真にしてコマ撮りしアニメーションを作る横田さん。映像の中で同時に流れる現在と過去。私たちは、横田さんの作る不思議な空間にぽつんと投げこまれ、猫と家族の思い出に包まれる。横田さんに制作への思いを伺いました。

情報誌「ヨコハマ・アートナビ」平成21年11月号表紙掲載作品
横田将士《いくえみの残像》2007年、4分42秒、アニメーション

「いつか、いなくなっちゃうんだ」

『いくえみの残像』を作るきっかけとなったものは何ですか?
中3ぐらいのときに、うちの敷地内に親子の野良ネコがいたんです。ある日、最近母ネコを見ないなぁ、どうしたんだろうなぁと思って、トラックの下をのぞいたら母ネコが亡くなっていたんです。喧嘩でもしたのか、母ネコの体には傷がありました。一緒にいた子ネコがおそわれたらどうしようと気になって、探して保護してうちで飼い始めたんです。それがこのネコ「みやちゃん」です。人間のようなネコで、布団で自分の枕で寝るんです。僕の部屋と弟の部屋が向かい側にあるんですけど、朝は、弟の部屋、それから僕の部屋と、順番に起こしにくるんです。家族の一員になって、僕も兄弟だと思えてくるようになってきたんですね。そのうちに自分の中で「みやちゃんは、いつか、いなくなっちゃうんだ」という気持ちが蓄積されていったんです。そんな時、ふとネコが床から生えてくるイメージが浮かんで、それは、写真を積み上げればできるってことがわかったんです。それが2006年の5月頃です。
そこからすぐに制作を始めたのですか?
その段階ではアニメーションをやったことがなくて、ドキュメンタリーと劇映画の間を行ったり来たりして、モヤモヤしてて...。自分ではその時期を混沌期って言っているんですけど、そんな時期だったので、作品は作らないと決めていたんです。作ろうと思ったのは、大阪芸大を3年くらいで辞めて、東京造形大学に3年生から編入してからなんです。9月から新しい授業で新しい先生が来て、その先生の授業の中で、みんなそれぞれ一人ずつ企画を考えるという授業があったんです。そのときにふと、そのアイデアを思い出して発表してみたら、先生がすごく褒めてくれて「絶対やったほうがいい」って。みんなの前ですごく褒められるから引くに引けないし、その先生の後押しもあって、やるしかないって思ったんです。そこでやらなかったら、大学に入りなおした意味がないし、4年生になったらあっと言う間に時間が過ぎてしまう。3年生のうちに1本作らなきゃいけないし。この作品に関しては、作らなければいけないっていう自分の中の声もあったんです。それに、いつかみやちゃんに関する作品を作りたいと思っていたし、その時にその気持ちが強かったんで、やるしかないなって。僕はどちらかというと、用意周到で制作に臨むというほうではないんですけど、今回はまず最初に5ミリ幅のスチレンボードを身長分積み上げて、それをカッターでくり抜いていって等身大のみやちゃんモデルを作ったんです。5ミリ幅にする理由は、写真20枚くらいで5ミリ幅になるからで、その計算をしていくと何枚で作れるかっていうのが全部出せるんですね。その5ミリ幅で作ったのをコマ撮りしてみて、床から生えてくるかをテストしてみる。そしたら自分のイメージするものに近かったんで、それで踏み切って、全く学校に行かずに、年末年始もずっと家で作業をしてたんです。
ビデオカメラはいつぐらいから始めたのですか?
高二で初めてビデオカメラを買って、家の中で撮っていたんです。それから、大学に進学して劇映画を撮り始めるんですけど、なんか違うなと思って、また日常を撮るようになったんです。その中で、2001年くらいから2006年くらいまでに撮影した中に、みやちゃんの映像がたくさん残っていて。100本ぐらいあったんです。その映像をJPEG単位で静止画にしていって、その静止画が200枚になると立方体になるんです。それをカッターで切って立体にしていくんですね。L版の切り抜きで、切り抜いていったものをパーツに分けて構成していくんです。プラモデルみたいな感じですね。足の部分は、L版サイズの印画紙を4つに切って、胴体はA3サイズの印画紙をカッターで切っているんです。積み重ねて撮って、積み重ねて撮って...。それを1枚1枚コマ撮りしていくから連続で動いてるように見えるんです。立体の中は、動画からおこした静止画なんで連続写真なんですよ。立体になった状態で手に持って、静止画をぱーっとめくったら、パラパラ漫画みたいになるんです。しかも、積み重なっていく、出来上がりながら中の映像が動いていくっていう。2つの時間軸が同時進行していく、空間に展開されていくっていう。
積み重ねて撮って、積み重ねて撮ってというその「撮って」っていうのはビデオで?
それはビデオです。今はスチールカメラで撮っているんですけど、その時はビデオで。シャッターを押して。『いくえみの残像』に関しては、パーツ全部で約3,000枚くらい積み重ねました。足が一個として、ひげとかも全部写真でできているんです。
ひとパーツで3,000枚?
いや全体で。ネコ1匹で。
ものすごく時間がかかってるんですね。
時間もかかるし、印刷だけでもすごくお金がかかるんです。A3サイズで印刷しようと思ったら、印画紙にすごくお金がかかって、作る前に友達に相談したんです。「これだけの金額がかかってると不安なんだよ」って。そしたら友達は「作る自信と、できたものに対して自分がどう思うかってことを考えたほうがいいんじゃない」って。
それでも作り続けたんですね。
自分の中では、作品の完成イメージができていたので、やろうと思ったんですね。そのおかげで、何も買えなくなりましたけどね。「いくえみの残像」に関しては、自分の思いと自分が作れるっていう葛藤や、自分のことを押してくれる人がいたこと、後がないっていうプレッシャーと...と色んなことが重なってできたという感じです。でも、みやちゃんを出すことへの苦しい気持ちもあったし、作ることへの苦しさもありましたね。生と死をテーマにしてるから、見ると苦しくなってしまうっていう...。作ったあとも、この作品が残るってことに後悔した時期もあって。自分がそんなことを考えてみやちゃんに接してたっていうのもいやだし、普通に接せられない自分もいやだったんですね。
作品が残ってしまうことに後悔したのはなぜなんでしょう?
お墓とかもそうですけど、その人の存在感って、いろんなとこに転がっているじゃないですか。誰もいない家ほど家族を感じるっていうのも一緒で、いなくなってから存在を感じような...。作品が残っていたら、絶対見れないだろうなって思ったり、最近はみやちゃんの写真も撮れなかったし、映像も撮れなかったんですけど...そういう複雑な思いが強い。

映像を「作る」という実感を得たかった。

1日の太陽の動きのような今現在の時間軸と、積み重なっていくネコとの過去の時間軸を一緒に同居させたねらいは?
照明を焚いてというのは考えてなくて、絶対に自然光でやろうと考えていたのと、暗い、夜明け前、日中、夜ともちろん意図してやっているんですけど、がっちがちに組んで照明を当てて作るようなやり方で、いかにも作り込んだという感じは出したくなかったんです。作られた空間ではなく、みやちゃんと自分が実際にいる家で、思いが積み重なっていくことが重要だったし、作品を作るというよりは、みやちゃんに対する思い、生と死を見つめる思いに形を与えていく感じでした。見て欲しいのは映像の面白さというよりは気持ちというところですね。
気持ちを見て欲しいっていうのは、みやちゃんに対する気持ちということですか?
それもそうだし、こういう作品が作りたくて作っているわけではなくて、自然にこういう作品を作らねばならない、作らざるをえなくて作ったので、人を感動させたいという気持ちは一切なかったんです。自分とみやちゃんの会話というか、セルフポートレートに近いんじゃないかな。作り上げたことで生と死を見つめるっていうか。そうして、客観的になるために作っている部分もあると思うんです。
積み重ねたネコの中に色んな映像が見えてきて、家族と過ごした年数がみやちゃんにいっぱい詰まっているんだよ...という感じがしたんですけど。
記憶には形があるんじゃないかと思うんです。記憶は、映像というよりは平面を並べている感じがする。動いているようで動いていない。でもなんとなく空間もある。自分の中では、積み重ねることで映像を「作る」という実感を得たかったんです。例えば、油絵とかで体を汚して描いていく、油絵だって平面ですけど、何ミリかずつ盛り上がってくるじゃないですか。結局、積みあがっていくんですね。でも映像は触れることができない...。「作り」たければ絵を描いてアニメーション化していけば、それはそれでできると思うんですが、自分は絵が描けないので、そういう選択肢がなくて、写真と出会えたからこそ「作る」ことができたんです。切ることと、積み上げることは"さわって作る"ってこと。苦しいんですけど、それこそ出来上がったときには満たされる。絶対的に満たされたものがあって、苦しかったけど、自分の求めていたものはこれなのかな、って思ったんです。パソコンに向かってマウスを動かして、映像を切っていってもつまらないんですよ。でも、手でさわって何かをするってことがない限り、満たされない自分があって。 よく言われるのは「床からネコが生えてくるんだったら、CGのほうがきれいだよ。それでやったほうがいいんじゃない」って、言われるんです。でも、自分の手によって作らないと出せないものがあると思うんです。映画でもドラマでも何でも、カメラの先に作り手が見えるのが好きなんですね。作者不在のものって、それはそれでよくあると思うんですけど、やっぱり見えてこないといけないと思っていて、そういう意味ではコマ撮り自体は、その人がやっていることだから。手描きのアニメーションで言ったら、1つの表情を出すのに、何枚も描くわけじゃないですか。あれって、心をつかまれるところがありますね。コマ撮りっていうのは、そういうものかなと。
そういった方法をとることによって「作る」という実感は満たされましたか?
満たされました。苦しかった分だけかたちになっているし、残っているし。結局、全部が画面の中に残っていっているんです。ずれて切ったのも撮っちゃってるし、切り方がヘタクソのとこも残っているし、ひとつひとつが残ってる。ものづくりをしているようなイメージがすごく強かったんですよ。映像は触れないっていうもどかしさが強かったんで。
みやちゃんに対しての作品を作らねば...という思いは満たされましたか?
積み上げていく作業までは何も考えてなくて...。満たされているという、絶対的なじんわりとしたものはあったと思うんですけど、みやちゃんのことに関しては、積み上げていったものを再生したときにどっと出てきました。作っているときは映像が動いてないから、ただ積み上げていったものが、積み上げながらもネコの形になっていく、そういうのは実感があったんです。作業しているときも、時々みやちゃんが部屋にきて作品づくりを見たり、匂いをかいだり。そういう感じは、自分では良かったと思います。身近にいれたって感じ。映像を自分にひきつけることができたし。
最後にみやちゃんと積み上げたネコちゃんとを同時に登場させますよね。それはなぜですか?
それは最初から決めていたんです。会わせたかったんです。
その時、みやちゃんはどうしてました?
舐めてまたよ。そんとき失敗したなと思ったのが、カメラを回してなかったんです。
最後に積み重なったネコちゃんがこちらをぱっと見ますよね。これはどんな意図が?
画面を飛び越えて欲しかったんです。
画面を飛び越える?
こちら側が見るほうじゃないですか、あちら側からもこっちを見て欲しかった。(笑)
積み上げたネコちゃんに見て欲しかった?
見て欲しかったんです。それは一番最初のカットでみやちゃんがこっちを見てくれて、接写でカメラ目線だったんです。自分の中では賛否両論なんです。映像をやっている人たちっていうのは、あそこはネコが動いて欲しかったって。歩いて欲しかったとか、のびをして欲しかったとかいう人が多い。僕はそれは違うなって。映像を面白くしようとして作ってないから、僕の中での最大限っていうのは、首を横に向けるだけだった。あの、いつもみやちゃんが座っている位置で。あれ勘違いする人がいるんですけど、最初見た瞬間は本物がいるんじゃないかって。
日常の普通の時間の流れと、思い出も含めた時間が同居しているのは、すごく面白い見方ですね。今、生きている時間軸だけじゃなくて、今まで生きてきた、通り過ぎた時間があって今がある。そういう時間の感覚はありましたか?
それは、すごくありました。今の生活では僕が一番最後に起きるんです。だから、起きた時には誰もいないんです。起きたら誰もいないんですけど、誰かがいた感じがする。古い柱とか見ても人を感じるじゃないですか、背くらべしたあとだったり。ブランコを見ても人を感じたり、そこにいた自分や、そこに自分が座ったことはないけども、子ども時代の映像がぽっと浮かんだり。歩いているだけで、昔を見ることってたくさんありますよね。過去にとらわれているわけじゃないんですけど。
ものに時間が宿っている感じがすると...。

その場に立っていた自分を思い出そうと思ったんです。

「記憶全景」のほうのお話を聞かせてください。こちらにせまってくるような作りにしたのはなぜですか?
あれは実験の推移で作っているんです。僕は『いくえみの残像』をつくるまでは、自分の作った作品が評価されたことはなかったんです。早い段階で『いくえみの残像』が評価をもらって、色んな人に色んなことを言われるようになって、そういうのもあってか、作品をつくる上で『ここにこんなものをおいたら面白い』とか『こんなかたちものをつくったら面白い』とか、それまで僕自身が否定してきた気持ち「面白いものを作ってやろう」という気持ちばかりが出てきしまって、作品が作れなくなってしまったんです。そうやってもがいている間にも、どこかでいくえみの残像が上映されていて、賞もいただいて「で、新しいのはどんなの?」って言われて、苦しくなっちゃって、もうやめようとかと思ったりもしました。 「記憶全景」は、そういう自分を追いやる作業からスタートしたんです。そして、もう1度、原点に戻ってみようと思ったんです。そんな気持ちで撮りためていた映像を見ていたときに、記憶前景の最初のシーン、親子の映像を見つけたんです。あの映像自体は2005年くらいの映像なんですが、その映像が好きで撮ってからも何ヶ月かに1回は見ていたんです。あの映像は、親子の映像自体を撮りたいと思って撮ったわけではなくて、偶然なんです。ある日、何となく公園に行ってビデオをまわして、あの塔を撮っていたんです。ファインダーを覗いたら、親子が遊び始めてて...。その光景が気持ち良くて、何か好きだなと思っていたんです。でも、なぜ好きなのか?100本くらいある中で、どうしてこの映像がこんなにも自分の中に残っているんだろう?と気になっていたんです。それなら、この映像を切り出して空間を作り上げたら、その時の自分が、どうしてこれが好きだったのがわかるんじゃないかって思ったんです。それで、作ろうという気になったんです。そのときに、ぽっと出てきた映像が、迫ってくる映像で。これで作れる!良かったって。
波のようですね。
撮りながら波みたいだなと思って撮っていました。

いいものは、そのもの本来から溢れてくるもの。

最後のシーン、屋上に関してはこちらにせまってくるのではなく、近景から遠景に遠のいていくんですよね。
もともと撮りたい時間帯があって、例えば、夜から昼へだったら、出来上がっていく段階で建物の色が変わってきますよね。それが画面の中に残っていったら面白いだろうなっていうのがあったんです。だけど自分はそれを実際に見ていないなぁって。それは絶対見てないし触れてない。それは違うなぁと。そこで遠くをみるときの自分の距離感を出してみようと思ったんです。僕の距離感は、あちらたからこっちに迫ってくるより、こっちからあっちに迫っていくイメージが強かったんです。その実感をそのままかたちにしたんだと思います。嘘かほんとか純度を上げてく作業っていうか、まじりっけなしにしたいんです。
どうして、まじりっけなしにこだわり続けるんでしょう?
作為的なものが世の中に多すぎて、多分、僕はそういうものが嫌だったんじゃないかって。テレビドラマとか、セリフが多い映画とか、作りこまれた写真、読者に媚びた小説家とか。僕の中のいいものっていうのは、そういうものではなくて、そのもの本来から溢れてくるもの。伝わったときにいいものだって思っていて、基本的にそういうものに好感が持てるし、自分自身も作りたいと思っていたんで。高3のときに処女作を撮っているんですけど、その作品は、頭に浮かんだ映像をひたすら撮っていったら物語になったというもの。色んな映像が浮かんだので、友達に手伝ってもらって作っていったんです。普通だったら、そこで脚本を書いたり、絵コンテきったりすると思うんですけど、僕はイメージ画がだけなんです。映画とかでも、演技をさせてないドキュメンタリーとか、そういうものにすごく惹かれるし、フレームで切り取られたものよりも、実際に目で見たもののほうがぐっとくる。
実際に見たもののほうが、切り取られた映像よりもぐっとくるというのはなぜですか?
そのほうが残るものもあるし、訴えかけてくるものもあるし、何よりも自分がそっちのほうが好きなんです。『記憶全景』は、自分の作品の中で僕が生まれて初めて、「好きだ」と思えた作品なんです。それまでの作品は、大事な作品なんですけど好きじゃないものが多くて。
今後やってみたいこととかありますか?
描いてみたいなって。手描きアニメーションをやりたい。描けないから写真をやってきたんで。自由奔放なアニメーションってあるじゃないですか。早く新作も作りたいです。『いくえみの残像』『記憶全景』に続くもの。
今は、アイデアを考えてるところですか?
そうですね。今度初めてパフォーマンスをやるんです。上映するだけでなくて、その場で紡ぎだすってこともしてみたいです。今回がいい経験になると思います。

(2009年7月 青山にて)


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