情報誌 毎月22日発行

5月号 / 2009

:インタビュー 「近藤 良平さん」

09.08.18


言葉がわからなくても通じ合える、
ノーボーダーになれるところがいいですね。

コンドルズ主宰・振付家・ダンサー近藤 良平(こんどう りょうへい)

コンドルズ主宰・振付家・ダンサー
近藤 良平(こんどう りょうへい)

プロフィール

ペルー、チリ、アルゼンチン育ち。コンドルズ主宰。第四回朝日舞台芸術賞寺山修司賞受賞。TBS系列『情熱大陸』出演。NHK教育『からだであそぼ』内「こんどうさんちのたいそう」、「かもしれないたいそう」、NHK総合『サラリーマンneo』内「テレビサラリーマン体操」で振付出演中。朝日新聞社『AERA』の表紙にもなる。他にも氣志團や矢井田瞳YUKI、宮崎あおい主演『星の王子さま』、三池崇史監督映画『カタクリ家の幸福』などの振付も担当。07年、野田秀樹演出、NODA・MAPの四人芝居『THE BEE』で鮮烈役者デビュー。同作品は朝日舞台芸術賞グランプリなど主要演劇賞を制覇。ダンサーとしては笠井叡、木佐貫邦子などの作品にメインダンサーとして出演してきた。また、一方で横浜国立大学などで非常勤講師としてダンスの指導もしている。近藤がベースを担当するバンドプロジェクト『THE CONDORS』はエピックレコードとメジャー契約。愛犬家。

この5月に、磯子区民文化センターの杉田劇場で行われる『近藤良平×坂東扇菊「天下」』は、男性だけのダンス集団「コンドルズ」主宰で振付家の近藤良平さんと、日本舞踊家・坂東流師範の坂東扇菊さんが織り成す先鋭的な舞台。コンテンポラリーダンスと日本舞踊が、それぞれの魅力を引き出しあうこの作品は、2000年が初演となり、その後もお互いの領域から意見をぶつけ合いながら発展、研磨され今回の再演を迎えることになりました。ダンサー・振付家として世界で活躍中の近藤良平さんに舞台の見どころなどを伺いました。

南米で過ごした子ども時代

プロフィールに、ペルー、チリ、アルゼンチン育ち、と書いてありましたが、何歳くらいまで南米にいらしたんですか?
正しくは、生まれてからすぐ行って5歳のころに1度帰ってきて、小学校1~3年は千葉県にいて、それでまた4年の途中でアルゼンチンに行って、それで小学校が終わるころに帰ってきたんです。だから12歳までの8年半ぐらいはむこうにいたんです。3歳か4歳になったころに、日本が地球の裏側にあることを知りました。
南米で過ごされた子どものころは、どんな毎日でしたか?
学校でもサッカーだし、家に帰ってきてもテレビでずっとサッカー放送が流れていて、僕が興味があるのもサッカーだし、街のショーウィンドウで見るのもサッカー。それに、土曜日は学校に行かなくて、公園でサッカーをやったり、親と一緒に試合を見に行ったりする。だから僕は「土曜日=サッカーの日」だと思ってたんです。土曜日は、とにかくサッカーをやってハンバーガーを食べる、そういう日でしたね。
周りの環境は?
住んでいたところが首都だから、車がバンバン走ってて、豚鼻のバスが悪い排気ガスを撒き散らす(笑)っていうイメージですね。でも、ちょっといくと、イグアスの滝や地上絵を見に行くことができて。パタゴニアとかすぐ行けましたね。
南米で生活して、自分が影響を受けたなぁと思うところはありますか?
人との距離感。むこうでは普通に生活している中で、挨拶でチュッチュッて(頬にキスするしぐさをして)しますよね。なんかそういう影響があって、人との距離、しゃべってる距離感が近いですね。

なんでもっと早く教えてくれなかったんだ!

ダンサーになろうと思われたきっかけは何ですか?
ダンスは、大学で始めたんです。まあ、その前にマイケル・ジャクソンのマネとかはしてましたけど(笑)。僕は教育学部だったんですが、大学で「からだ気づき」という、非言語コミュニケーションの授業を受けたことが、そもそものきっかけですね。その授業は、30分間ずっと手をつないでいるだけとか、心臓の音を聞くとか、からだと対話して自分を知っていくというような内容だったんです。その時は「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ!」って、怒りに近いほどの感銘を受けました。
「からだ気付き」ですか?
そう。自分で気づくしかないぞっていう。そういうのって、他人が教えることじゃなくて、自分で気付くものだから、難しいんですね。
大学までは、ダンスには全く触れていなかったんですか?
クラシックバレエは、こどものころからやっていました。でも、僕がたまたま触れたモダンダンスは、日本でいえば創作ダンスだし、現代舞踊だし、それは、今につながるんですが、そのころはまだそんなにカテゴライズされていませんでした。大学から始めても遅いという感じはしなかったですね。自分的には、ダンスという習い事が好きだったわけじゃなくて、体と向き合っているのが面白かったし、それで何かを作るっていうのが楽しかったんですね。要するに、絵を描くような感じで、道具ではなく体をつかって振り付けで表現するってことですね。
そのころ、男性でダンスをされていた方は大勢いたのでしょうか?
僕がダンスを始めたころは、日本でダンス、しかも男がやっているというのは少なかったんですね。そういうところが非常に魅力的だったし、なんでこんなに少ねえんだ!この野郎!!って思いましたね(笑)。
そんなに少なかったんですか?
そうですね。今でも少ないですよね。すごく少ないから少し踊れると、とても重宝がられるんですよ。それが、すっごくムカつくんですよ。
ムカつくんですか(笑)?
ムカつきますよ。だって、まだ3ヶ月くらいしか習ってないのに、総タイツで舞台の中央でこうやって(両手を上にあげてポーズ)やらしてもらえて、でも、これは本当に正しいのだろうか...とも思ったりするんです。
ダンサーの他に、考えた道はなかったんですか?
多分、芝居をやるとか、歌をやるとか、色々と選択肢はあったんですけど、そのときはたまたま、むき出しの「からだ」っていうことに魅かれていたんですね。そうとしか考えられない。それが、意外と飽きっぽい性格なのにもかかわらず、続けていけた理由でしょうね。
在学中に休学して、ヨーロッパへ放浪の旅に出られたそうですが。
そうです。4年の夏を過ぎてからですね。これが終わると、もう俺は卒業しなくちゃいけなくなっちゃうっていう手前で。
旅に出ようと思ったきっかけは?
そのころは、果敢だったんですね。果敢というか、大学では、友達がいなかったんですね。ダンス部の仲間はいっぱいいたんですが、4年のその時期になると、みんな就職のことしか考えなくなっていて。そのあたりが僕には理解できなかったんですね。別に友達が悪いんじゃなくて、まだ何も経験してないし、稼ぐってことがどんなことかもわからないのに...って。なので、勉強をしたいというよりも「このまま就職はできない、もうちょっと無駄骨を折りたい」と思ったんです。たまたまその時に、ヒッピー革命とか、サイケデリック革命とか、そういうのがすごく好きだったので、ある意味必然的に旅に出ましたね。
近藤さんは教育学部でしたよね。先生になりたかったのですか?
そう、一応先生になろうかなって思っていたんです。でも、旅行から帰ってきても、見たいものがいっぱいあって、まだまだ引き出しが足りないって思ったんですね。それで、まあ20代は少なくともこれでいいかなって(笑)って思ってました。
そこからダンサーの道を考えられたのはなぜですか?
一番大きなきっかけは、24、5歳のころにポンキッキーズの振付の話がきたことですね。"じゃかじゃかじゃんけん"のころなんですけど。サマーツアーで、テレビとは別にガチャピン・ムックが全国二十数か所に行く企画で、出演と現地での振り付けを任せられたんです。その時は振付家という立場ではなかったんですが、僕に全部振り付けを頼むって言われて。ポンキッキーズでは、もちろんガチャピン・ムックが中心だけれども、いろんな人に協力してもらって振付けをして、初めて作品ができたんです。夏休み中だったので、会場に2千人くらいの子どもがいっぱいで「うわ~っ」と喜ぶ。「あ、こういう世界があるんだなぁ」というのと「こういう舞台をしっかりやるっていうのはいいことなんだなぁ」って思いましたね。その時ですね、こういう仕事がしたいと思ったのは。自分で発信したものをそのまま見せたいなっていう気持ちが、うまくつながっていったのかもしれないですね。

内容を変えずに、いかに僕たち的な発想を表現するか ~杉田劇場「天下」の公演~

今回の杉田劇場の公演「天下」ですが、坂東扇菊さんとは、10年くらい前から一緒に作品を作っていらしたとお聞きしましたが...。
そうなんですよ。扇菊さんとは長いですね。すごい人ですよ。日本舞踊の世界って、僕も全く詳しくないですけど、厳しいじゃないですか。僕らのコンテンポラリーダンスは、ある意味すべて自由で、自分のやりたいことや、立場も自分で決めることができる。でも、彼女たちは違って、それなのにその中で何か新しいこと、違うことをやるっていうのはすごいなと思う。
なぜ、一緒に作品をつくることになったんですか?
扇菊さんは芝居がすごく好きなんですよ。もともとは、ダンスパフォーマンスを自分でやりたくて、男の人がたくさん必要になって、セッションハウスのオーナーに相談したら「じゃあ、いい男知ってるわよ」って(笑)、それで、コンドルズの仲間を紹介してくれて。そこからが始まりですね。それから、一緒に作品をつくったりして、ちょっと面白くなって、もっとやろうかっていう感じになったんです。
演目の2つ、『天下』と『御前に~狂言より棒縛りを題材に~』の見所はどんなところですか?
実は2000年に、『御前に~狂言より棒縛りを題材に~』のパイロット版をつくったんです。それまでの僕は「狂言」っていう言葉しか知らなかったし、「棒縛り」も知らなかったんです。本当に全く知識がなくて、扇菊さんの動きを見て「ありえない!すごい!どうしてこんなに低い姿勢を保っていられるんだ...」って、すべてに感動していました。「棒縛り」の話は知ってますか?4コママンガみたいなんですよ。この話は、徳川時代の話で、主人が自分の留守中に下人が酒を盗んで飲まないようにするために、騙して二人の下人を縛り上げておいたら、下人も主がいないうちに酒が飲みたくて、縛られたままの二人が不自由な姿勢で協力して酒を飲もうっていうシンプルな話。これはもう、現代劇ですよね。内容を聞いて、意外と昔の人も馬鹿なことをやっていたなぁって、嬉しくなりましたね。
この狂言に敬意をはらいつつも、内容を変えずに、いかに僕たち的な発想で表現するか、例えば、小道具に携帯電話を使うというのもありなんです。このあたりが見所ですね。音楽もミュージシャンにお願いして、いろんなものを混ぜて、日本伝統のような、そうでもないようなものになっています。それでいて、衣装は着物。僕らが芝居で着るような衣装じゃなくて、完璧な和装で...。外国人が見たら「オー!ワンダフル!ジャパニーズ!」って思うんだろうけど、日本人が見たら「絶対おかしい!」と思うような感じです。
『天下』のほうは、チェロと鼓がありますけど、その音は最初から決まっているものなんですか?
決まってないです。自分たちで、こうしようっていうのを決めていくんで。でもそれは、積み重ねでだんだんお互いの理想のかたちになっていくという感じ。面白いですよ。
お互いの共通言語をつくっていくというイメージですか?
そうそう。あるいは、これならOKかなというところを見出していく作業ですね。だから、お互いに遠慮したり、すごく頑固だったらできない作業ですね。
振付家として嬉しいと思う瞬間や、楽しいと思う瞬間はどんな時ですか?
たまたま僕は今、振付や、振付に限らず体の動きをつくるとか、体のことを専門にしてるわけで、そうすると、子どもたちともつきあえるし、大物俳優さんにも振付をすることがあるんです。そういうのって、普通の生活ではありえないし、自分でもちょっとずるいかなと思ってしまうくらい、多くの人と触れ合える。それに、ダンスはボディランゲージなので、外国で言葉がわからなくても通じ合えるっていう、ノーボーダーになれるところがいいですね。
日本でダンサー志望の人は多いんですけど、振付志望の人ってほんとに少ないと思う。もっといてほしいし、振付がもっと身近になればと思っています。

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